生きる歓び・風が通りぬける! |
もう人生の終盤に入り
いよいよ自分を完成させる・・・に当たり
もう
感情はいらないなあ~と
ずーっと考えていました。
完成させるといっても
それは
自我を捨てられるだけ捨ててしまおうと
言うもので
完成というより
自己解体かも知れませんね。
融通無碍、
流れる水のように
とどまることのない雲のように
自我が解体して
逆らわない・・・・・というところまで
自分をもってゆこう・・・と
思っているのです。
そう思いながら
昨日、仏教についての簡単なガイドブックを
読んでいたら、
ある瞬間に
すーっと風が吹いたような気がして
”分った!”と思いました。
これから自分がどうあれば良いかが
わかった気がしたのです。
冒頭にかいたように
自分の中の感情を追いだし、すてようと努力を続けていますが、
最近の私は、もう考えられないくらいに
自分がサラサラとなってきています。
ああ、あの、我が強く、
瞬間湯沸かし器のように
一気に感情が高ぶり
起伏の激しかったわたしの中が
もうがらんとして
神経があまり反応せず
たいがいのことが流れてゆく~。
なぜ感情がいらないかと言うとね、
感情のほとんどは
短絡した思い込みから発せられるものだからです。
ほとんどがね、
ワニとネズミの幼稚な脳が思い込んで
短絡するのですよ。
そして
その思い込みこそも
その人間が思い込んだことにすぎない。
つまり
その人間が造りだした思いこみに
すぎないからですね。
まあ、感情は独りよがりなんですね。
以前にもかきましたが
私は道元が好きで
なぜ好きかというと
道元は、
徹底的に、すべては自分の内面にあり
と人間の本質を看破したひとです。
「只管打座」
だから、彼はひたすら坐禅により自分の内面を究めることに
徹しました。
自分の感情も、
自分の内面が反応して感情が起こり
その感情に呑み込まれて
自分の内面が動揺し
それが自分に返ってくるという
すべては自分のなかにある
自分の自我が造りだした対立構造が
他人へと投影されているにすぎないのです。
つまり生きることのすべては
自分が発し
自分の中でおきることにすぎないのですが
道元はそれを熟知していましたね~。
自分の感情を掃除し
感情がせいりされればされるほど
心の中は平安になってゆきます。
そして私は今、もう
感情はいらないとおもっています。
あるとしても
山肌をちょろちょろと流れる湧水程度のもので
いい。
咽喉の渇きがさっとうるおされるだけの量で
いいです。
感情が整理されるとは
人間のなりたちや
この世の成り立ちが
よーくわかってくるということです。
感情が整理されてくる
或いは
捨てられてくると
自分が外部世界に
あまり反応しなくなります。
では、
反応するとはなにか・・・?
逆に反応しないとはなにか・・・?
これも説明するのがちょっとむずかしいのですが
その構造てきなことも
すこしずつ書きますかね~!
まあ、成り行きにまかせよう!
でも
「赤いろうそくと人魚」でおはなししたように
感情というものが
いかに自己中心的で
短絡するものであるかは
なんとか
書きましょう。
これも私の使命でしょう。
いよいよシャドウのことをお話した
YouTubeがアップされました。
どうぞごらんください。
● 赤いろうそくと人魚・シャドウについて
● アンデルセンの男性性について
しゃんとした錫の兵隊・みにくいあひるの子・もみの木
親指姫
人魚姫
「竹取物語」
「シンデレラ」