究極の自己イメージ・その5 |
考えているうちに
ああそうだ、
”無心の自分”ということだよなあ~と
ひらめきました。
初めからこういう風に書いたら良かったね!
私の中には自分が到達したいイメージとして
いつも
あっけらかん!としていて
スタスタと無心に生きて行く自分というのがあります。
それは良寛の
「謄々任運」という
運を天にまかせて
のほほん、のほほんという
境地でもありますが、
実はね、この境地、
口で言うほど
優しいことではないんですよ。
どうしてかというと、
人間の自我や自意識には
たくさんのゴミや汚れがありますからね。
それを取り除いていかないと
得られないのです。
自分の
エゴに基づいた本能的な欲望や
自己防衛の欲求、
コンプレックスや優越感や劣等感の序列価値意識や
集団、社会の掟や規範やその思想に規制された、
思い込み
さらに自分の家族からバトンされた
さまざまな先入観などが
自我や自意識には
まとわりついていますし、
さらに
そしてそういう思い込みから
●過剰に防衛的発生する
恐怖や不安や怯えやと心配などいう
●常に自分の心と体を不安定にするものが
頭の中(意識の海の中)にプカプカ浮いています。
それらは、
人間が何かに集中して自分を忘れているときには
消えてしまいますが
そうでない時や
頭が退屈して暇なときなどに
つまり自分の意識と感情が統制されていない時に
(心理が無秩序状態の時)
フイッとなんとなく意識に現れて
なんとなく
自分が不安になったり
生きるのが怖くなったりして
さらに
自分の防衛意識や
不安意識を強化してしまうのです。
人間はなんとなくそういう不安や恐れを常に
無意識に溜めこんでしまい、
そういうものが、意識が統制されていない時
プカっと浮かんでくるらしいです。
このブログでも何度も書きました
”心理ゲーム”と言うのも
自分が”退屈しないように時間を構造化するために
行うと言われています。
つまり
自分の意識と体が何かに集中しながら
一体化して
”いない時”
自分の頭がヒマに襲われて
体と頭とがばらばらの
”無秩序状態”のこころにスキがあるときに
プカプカ浮かんでくる不安を解消すべく
他人にゲームを仕掛けるのです。
だから心理ゲームをするというのは
自分の中がアナーキになって
不安や恐怖で不安定ににならないように
他人のエネルギーを奪っては、
自分の不安を穴埋めにしよとして
仕掛けられていきます。
自分の自我へと他人の注意を向けさすことにより
自分の心理的安定を
図ろうとするのです。
人間はいつも
なんとか
安心して生きようとするのですね。
しかし
その安心を得るために
自立する決心をして
自分の心を鍛えることや
自分で自分の意識と感情を
自己統制していこう・・・とは
なかなか思わないらしいのですよ・・・トホホ!
なぜなら
そういう自分になるためには
原因となっている
自分の自我の汚れやゴミや
思い込みに
面と向かい
自分を突き放して
それまでの自分の生き方を
洗いざらい
検証しなくてはなりませんからね。
そこに起きてくる
或いは今までの自分にしがみつこうとする
自分を
突きはなし
自分のエゴや
防衛の感情や意識を捨てて
自分を検証しなければならないからですね。
そうではなく
たいがいの人が
自分の自我も自意識もそのままにしておいて
(現状を維持しておいて)
安心しようとするのが
いわゆる
他人や社会への依存
他人や社会への甘え
他人との心理ゲームなどです。
だから
”無心”ということが
どれほど大変な
検証作業か・・・と言うことですね。
しかし
それも無心になろうと
覚悟を決めたひとにとっては
そこが入口となり
新しい自分
新しい人生のはじまりとなる
実は
楽しいゲートなんですよ。
そして
自分の自我の汚れやごみを
お掃除して
感情の怯えや恐れを退治して
行けばいくほど
今度は自分が本来もっている
能力が活性化してくるのです。
なぜなら
それは自分が本来もっていた能力についている
ゴミや汚れやをお掃除し
更に
エネルギーを抑圧していた
感情の委縮を
解き放つのですから。
人間はその人間が安心しきっているときに
さまざまな事を成し遂げられます。
安心しきっているときこそ
自信にあふれている自分がそこにいます。
いつももう口が酸っぱくなるほど
わたしが書いて、言っている
120%の自分への信頼と
自己肯定がなされている
自分です。
自信がない・・・というのは
自分の中が
不安や恐れに脅かされている状態です。
われを忘れて没入している時こそ
自我も自意識もまったく自分の中から消えて
可能性が全開し
無心にことに取り組んでいる”わたし”がそこに
そこにいる!
今日はここまでにして
次回は自我と自意識の汚れについて
書こうとおもいます。
では、
また。