枯れ木が折れるように・・・。 |
他の人が自分よりずーっとすぐれて見えました。
確かに他人は自分にはないものをもっていますが、
それもいいトコ半分で、人は誰もが
その人なりに、すぐれたところ持っているいるんだと思いますが、
とりわけ、自分よりすぐれているかいうと、
まー
どっこい、どっこい・・ってとこじゃない・・と
現在の私は、
そう思います。
このことは自分の周辺の他人にたいしてのみ
そう思うではなく、
有名。無名を問わずすべての他人に対して
今の私にはそう思えるのです。
世の中、かなわないほどすぐれた人など、
そうはいない・・・と。
人間は、
宮沢賢治の「どんぐりと山猫」に出てくるどんぐりの群れ
見たいなもの・・・ダローと
おもうのですよ。
また
時には
あーっと思うくらいのずーっ後ろの遠景の中を歩いている人もおり、
逆に、
自分が歩いてきた道程を
よくここまで辿り着いたなーと思います。
いろんなことがありましたねえ・・しかし
潜在的に他者に依存している自分を退治し始めたときから
風景が少しずつ変わってました。
多分自律した風景がみえるというのは
こういうことではないかと
思っています。
少しずつ、
自分が自力で、悩みや問題を解決する、
そのことは、いうなれば
自分を洗い直し、突き放して、向こう側の視点からも
自分の姿を見てみる・・という
ちょっと心理的には、厳しい辛いものでしたが、
そのおかげで、
自分が固守しているものの正体や
自分の感情に付着している、垢や汚れやコンプレックスを
えいっと勇気をだして凝視できました。
そして最後には
捨てる!
不思議なことに
自分に付着している汚れを取って行く過程が
自分が頭が良くなっていく過程でもあった気が
します・・・笑い!
先ほどこのところ読んでいた松岡正剛著
連塾・方法日本「神仏たちの秘密・日本の面影の源流を解く」を
読み終えました。
その最後の方に
・すべての夢は結局、覚めていないと見えない。
覚醒しないと夢が見られないということ、
これが仏教なんです。
という一節があるんですが、
仏教も含めて
自分が生きる、
自分が死ぬ、という
個であり、孤である自分を
引き受けようという、強烈な自意識。
自分のエゴに凝り固まった自意識とは違う
洗いざらしにされて、汚れが落ちた自意識で
自分を装飾していたものが抜けてもなお
自分の力で生きようとするとき、
風景は更にシンプルにみえてきたと
思います。
過剰な依存は過剰な期待を生み
自分の目が曇ります。
そしてその雲った目に見えた風景と現実の実相との落差で
迷路に入り、
ひとは
夢を見れなくなる。
もう直ぐ63歳、
まだまだ知らないことばかり
人生は未知に満ちています。
きっとまだまだたくさん
オモロイことに出遭って、
すべてが熟していったときに
ポキンと
枯れ木が折れるように
おダブツしたいです。