巷間に胡座する。 |
いつもニコニコとした笑顔で
本人の人柄も愛想がよい教師がいた。
しかし
彼女はその愛想笑いがあざになり
ある日から、生徒の激しい突き上げにあい、
とうとう機能障害(ヒステリー)を起し
退職してしまった。
生徒は、
自分達はこんなに真剣に先生と向きあい
話しているのに、
なぜ先生はその薄ら笑い顔で、
真剣にならないのか・・・と。
彼女は長年、その愛想笑いで教師職を凌いできた、
教師職だけではなく、日常全般の人間関係を凌いできたのだと
思う。しかし
お面のように張り付いてしまったその笑顔は
彼女が真剣な時でさえ、
そういう顔の筋肉になってしまい、
それを生徒達は理解できなった。
自分が引篭もる・・・という手段をとることにした大きな理由に
他人との付き合いがいよいよシンドイと言うのが
あります。
人間はいつも自分である個(孤)の世界と人間世界(全)の中を
或いは
自分と他人との”個”としての差異の中を
シーソーのように生きており、
いよいよ”個”が極まっていくと
どうしても差異や違和がひろがっていきます。
それでも集団に紛れ、”全”の意識に埋没して生きている人間は
その集団の幻想を、疑いもせず生きれるかもしれないが
自分を意識しはじめた人間は、どうしてもそこにストレスが
生じます。
私の場合も最近とみに
”個”が極まっていくなかで、
周囲の人々に自分を合わせるのが
とてもシンドイです。
もともとあまり人が好きでないし、
年齢を重ねてきたいま
自分の設計図の全貌が見えだした
エネルギーが減ってきていることもあり
ほんとうに必要なことだけに絞り込みたいと
思います。
そう考えてくると
真水のように虚飾のない言葉を交換できるひとだけと
話たい、という
願望が強くなっています。
これまでは
なるべく他人には心を開いて、
壁を造らないように・・・と心がけてきましたが、
今は、ちょっと垣根をつくろうなあーと
思います。
西洋の石の壁や砦ではなく
日本家屋の柴垣くらいですかねー。
良寛が新潟に帰って来て
行乞しながら、子供とてまりをついて遊んだというのは、
良寛があたかも徳のある坊主のように
人格者化されていますが、
私は、もしかしたら、子供はその言葉によけいな修辞やお世辞がなく
ストレートに言葉を交換できるからではなかいと
思います。
その証拠に良寛は
道でであった老人に
「お前は修行もせず、昼間から遊び呆けて、何をしてるんだ」と
説教されるのを、ただ
うなだれて黙って聞いています。
説明しても分りえない深さを彼が
宿しているからです。
おそらく
成人と話すことに
今の私が感じているような、焦燥感や不毛感を
感じており
成人はパス・・・と言う具合でなかったかとも
思うのですが。
スロージョギングをしている時にも
挨拶をかけられのがとても嫌です。
とくに朝は、散歩やウオーキングしているひとが
やたら挨拶をしかけてきて困ります。
オバサンたちなどは
その挨拶の声の裏に、取り込もう・・という無意識のものを感じ、
いやに馴れ馴れしかったり、
明るかったりすると思わず
避けてしまいます。
こういうことを書くといかにも
了見が狭い・・といわれそうですが、
人生と言うのは極論すれば、
自分の中に入り込んだ”他人”を追い出す作業の連続です。
チューブの中のドロドロの他人をぐーッと押し出して
こんどは自分という清々しい空気を入れる。
そういう作業だなーと
私は思います。
だから
その作業をしていない人は
他人と自分をごっちゃにしたり、
昨日書いたように
上昇欲や支配欲や優劣感や劣等感やその他
モロモロに起きてくる
他人達との軋轢で
時間と人生を浪費してしまいます。
遠く群れからはなれ、
集団をつきはなし
良寛ではないけれど
里へは下りてくるけれど、
さて夕方になれば
あの雲が漂うあたり(五合庵)へ帰ろうか・・というくらい
自分という個(孤)を守らないと
湧き水のように清々しい水(言葉)は
湧きもせず、
飲めもしないだろうと
思います。
そして
いよいよ自分が守りきれた時は多分
群れの中にいても
巷間の真っ只中にいても
平然として胡座できると
思います。