自分の中に入り込んだ”他人”を追い出す! |
たくさん摂取すればにんじんの赤い色素が皮膚に出そうだが、
人間の身体は、必要以上に摂取しないようにできているので、
たくさん食べても真っ赤かにはならない・・・と言っていました。
昨日のブログで
”自分の中に入り込んだ”他人”を追い出す作業の連続です。”と
書きましたが、
このことをもっと詳しく書くと、
ご存知のように脳は獲得したたくさんのデーターを
過去、未来、現代の状況を一瞬に鑑みながら
編集して脳に”記述”していきます。
そのとき出入選択の判断基準にになるのが
自分の生命を保全するために
それまでの自分が反応し獲得してきたデーターで、
中には、本来の自分の意志とは違うものもあります。
特に幼児期には、
親の意志に添ったほうが安全であるとか
周囲の感覚や意志や感情で生きたほうが
安全であるとか、
さまざまに自分の意志や欲求を摩り替えて
他人の意志や感情を是とする記述が
そのまま成人しても保存されています。
しかし、
心の深層にある自分の本心も
そこに記述されていますから、
成長していくにつれ
だんだんねじれ現象がおきます。
また
自分の心は見えなくても
それは様々に他人に投影し、
好きや嫌い、擦り寄りや拒否などの
反応現象として
たち現れてきます。
わたしはそういう自分の反応の根拠は
何なのかと考えますが
それは、コレまでそういう勉強をしてきたからで、普通は
自分の瞬間芸として
余り自覚していないと思います。
また
そのとき
そのことは、ほんとうに自分の意志なのか
それとも、自分の中に入り込んだ
他人の意志なのかを見極めないと
人生は
自分ではなく
他人の意志と感情に乗っ取られた状態で
行過ぎてしまいます。
おそらくほとんどの人が
他者の意志と自分の意志の境目を
曖昧にして生きているのが
日本という社会の特殊性ではなかろうかと
私は思います。
それも悪いだけではなく
そういう風に
集団や他人達のなかに紛れ込み
自分をぼかして生きたほうが
生き易いという現実もあります。しかし
自分が自分をぼかし
紛れさせている・・という自覚がないと
いつの間にかそういう脳になってしまいます。
人間はすべてが一人一人自分と言う特殊な脳で
生きていますから、当然
こんなはずじゃーなかったという差異や
すれ違いがたくさんあり
そのとき自分の意志という根拠があれば
凌いでいけますが
そうでない場合は、
迷路にはいったり混乱したりするでしょう。
現在私は62歳ですが
それでもまだ
他人の感情や意志の残骸が残っており
いやになります。
中でも
無条件に
人と仲良くとか
前向きとか
明るくとか、
には
閉口です。
極論すれば
心の中は
すーっといつの間にか忍び込んだ他人との
格闘ともいえるのではないかと
思うくらいです。
だから私はそれを他人に投影していて
人が嫌いなのだと言えますし、
しかし
そういう自分をだまして
人を好きと思い込む自分は
偽善者で、
もっとダメになっていきます。
とりあえず正直になることだと
思います。
依然書きましたが、
幼児期の味覚、好き嫌いを大切に・・・と言うくらい
自分の好みやこころの実感を
ひとつひとつ吟味してないと
その集大成がベースデーターになっていった時
とんでもないことになってしまいます。
冒頭に書いたにんじんのカロテンのように
自分に必要かどうか
必要でないものは
摂らない・・・という
垣根だけは、作っておきたいと
今は思っています。
そしてひとはその気になれば、
じーつと自分の内面を見る、聞く?ことができます。
自分の本心とは
βーカロテンのように
ちゃんと必要な時には取り出せるように
身体が摂取しているはずです。
リラックスして
深く呼吸して
じーっと自分の心を集中させて
聞いて見ることですね。
また
じぶんの心がストンと落ちないときや
なんだか居心地が悪いときは
自分がそのことを納得していないと言うことです。
人間は複雑で
常識とかなんかでは
仕切られない存在です。
それより
自分に正直に
生きることだと
思います。