トヨタの失敗と脳地図! |
そのとき、いつも応対してくれる我が家担当の青年に聞いた。
多くの販売員がおりますが、彼だけは見込みがあるような気がして
私は話かけます。
「このところのアメリカでのトヨタバッシングは、
なぜだと思う・・・?」
彼いわく「、色々原因があると思いますが、
やはり一位になったことでしょうか?」
そうね、やはりうかうかと一位になったことでもあると
わたしも思います。しかしそういう考えはやはり
「日本的、受身の、ことなかれ」が裏に張り付いた考えでもあるように
思います。
私はイタリアに4回、フランス、ドイツ、スペインに一回ずつ
アメリカには2回行きましたが、
いつも思うのは
これらの国にはバカでかい建物や教会とたかく尖がった塔があって
いかにも、キリスト教の唯一で絶対的な”神”が支配する国だなあーと
言うことです。
キリスト教の神は高い天の上に鎮座し、
人々はその神にそむかないように生きようとする。
だから横にいる人間とのつながりよりも
天にいる神と私の世界が優先され、
教会も塔もひたすら天へ向って
大きく高い。
アジアは中国に1回と台湾へ4回しか行っておらず、
インド、タイやベトナムのへはまだ行ったことがありませんから、
そこにもイスラムや、ヒンズー、そして仏教の
バカでかい建物や、教会や塔があるのかもしれませんがしかし
中国も支配者達の立てた後宮や万里の砦など
超でかいものはあったとしても
それがひたすら天をめざすものではないように思いました。
中国に行ったといってもそれは27年前の
共産党の政策で始めて自由市場ができた頃で
自由市場はほとんどが露天商のテントの店でした。
町には馬が引く荷馬車がとことこ歩き、
極めてのんびりとした光景でした。
その光景を思い出すと同時に
わたしがいつも思うのは、
日本の神社や仏教寺院の屋根はなんとなだらかで、緩やかで丸いのだろう。
おそらくキリスト教が絶対唯一の神であることに比べ、
この世は「縁」によって諸業がおきると、
人間の「関係」をといた釈迦の世界のなんとおだやかなことよ!と
思います。
釈迦は人間として生き、死んでいきました。
そこには、生きることは一切苦である、しかし
一緒に生きるためにどうしたらいいかと教え
それはキリスト教の「神の支配」とは全く異なる世界です。
おそらく西欧諸国の人々の潜在意識には
一位となることは即ち、世界征服とか支配ということと直結しており、
当然トヨタにもそういう下ごころがあると
思われたのではないかとおもいます。
それは西欧の人々の下意識、潜在意識にずーつと記述されており、
キリスト教があるかぎりバトンされ続けることだと思います。
しかし
日本人は、トヨタにしても一位になることは、
それほどすぐれた技術を貢献していることであり
市場を独占するとか
支配とか、征服などはないでしょうが、
そういう風に西洋人が理解するとは
わたしにはとうてい思えません。
半世紀まえまで、他国を植民地化しようとやっきになって
世界征服をめざして競争していた国々ですよ、
つまり、脳の中の記述が全く異なる・・・という前提を
すっかり読み落として
うかうかと西洋文化の世界に進出した
日本の企業が当然食らうであろう帰結だと
わたしは思います。
こういうことを思うと
世界へ出て行くには
世界の国々がそれぞれ全く違う
脳内記述と地図をもっていることを
ふかーく詳しく知っていないと
トンでもないことがおきてしまいます。
とくに企業は
”売る”とか
”買う”とかいうことの奥にあるその民族の
潜在的な動機付けのところを
研究してから、経済活動を組み立てないと、
とても危険な気がします。
これほど脳科学が流布されてきてもまだ、
学問としての白い塔からぬけだせず、
一般からは遠い世界です。でも
実際は
インターネットによってこれほど情報が開示されれば
今までの閉じられた世界に比べ
よほど世界の共通認識が起こりそうですが、
それほど甘くないです。
営々と綴られてきたその民族独特の脳地図は
ふかーい潜在的な闇を内包しており
市場としての有効性や
人件費が安いとか・・など表面だけでの判断などは
余りにも軽率に思います。
疑似西洋のフリをしてきた日本でさえ
イマダにその底流には
日本的方法のしかたで生きています。
この日本的方法については、
松岡正剛著「連塾、方法日本」のⅠ、Ⅱをお勧めします。
ほんとうにグローバルというならまず
旗を立てる必要があるでしょう。
自分たちのねらいや意図や目的を
きちんと思想化し言語化して
それを良く理解してもらえるような
旗をたてていく必要があります。
自分たちの国、日本が2000年の歴史のなかで
培かいバトンされてきたこの国の文化と思想と価値観
をあきらかにした旗をたててからの
行動が必要でしょう。
日本と言う国は、その中にも
外に対しても
多くの異なるものが多様に存在することを許し
またその多様性の中から”創発”し、された文化を
常に造りつづけた国で、
神道も仏教も中国のタオイズムもしてキリスト教でもさえも
それぞれが
共立し共存して息吹く国だということ。
そういう旗と旗印の旗竿を腰にさして
戦わないと・・と思います。
脳の中の世界は
そのまま現実のありようへと転化されて
現れてきます。
バカでかい堅固な建物と砦と街道の西洋と
迷路や路地がたくさんあって
人が溢れ、直ぐ壊れそうな家々が立ち並ぶアジアの国には
はっきりとそれぞれの脳地図の違いが出ています。
冒頭のトヨタのように
進出した国の顔色を伺い一位はさけて・・・という考えではなく、
堂々と一位をゆきながら、しかしそれは
使ってもらう人々に心底高い技術の車を味わってもらいたいためで
競争にうちかって、利益を独占しようというのではないことを
きちんと文脈化して旗にする必要があると
私は思います。
そのことを受け入れてもらえる努力をしないまま
物を売る・・ということは
怠慢だとも思います。
また
これほど科学が進化している今
わたし達はそれを有効に
”生きる”ことに使わねばと
思います。
こういう時代だからこそ、
文化や芸術や伝統などに携わる人々が
おおいに活躍して
この国をたすけて欲しいと
思います。