2010年 06月 22日
清志郎・・・納得しないと歌えない! |
今日は立川まで買いものに出かけた為、
一日が忙しく、本を読む時間が10数分くらいしか
取れなかったが、それでもこの本のなかの言葉に
共感する箇所がありました。
インタヴューを受けた清志郎が
「(夏の海がどうとか、君が好きとかいう歌は)作れないの。
経験がないから。作ったとしても真実味がないわけ。
自分で歌った時に、納得してないの、うん」と
答えている。
立川からの帰りの車中で、
買ったばかりのアルバム「初期のRC・サクセション」を
聞いた。
ナルホド、ボーカルの清志郎の声は、
エネルギーがまっすぐで、腹から言葉がでており、
これは自己一致している人にしかでない
声で、まるで話すアンジュレーションそのものが
声になっている。
自己一致していない声は、
声に微妙な媚びやつくりが入り
聞く人の心と身体に撒きつくような
違和感ががはいるが、
自己一致している声は
その人間の言葉と心(動機)が
ドンとストレートに聴き手の身体と声を貫いていく波動に
なっていく。
だから彼はモロニ聴衆へと向ったと
思います。
アルバムの中には
確かに、三人のクソガキがいて
気もちがいいくらいに
言葉を投げつけてくる。
オマエ受け取れよ!
受け取れネーンじゃーよ
俺達の歌聴く資格がねーよ!と
ぼんぼん直球が飛んでくるようでした。
自分にないことは書けない。
自分が納得してない言葉は紡げない!
わたしもこのブログをそういう風に書いています。
正直にです。
だから時々自分の混乱がそのまま出てしまいます。
それでも
いいです。
私のブログを読んでくれている友人や
従兄弟から、
『強烈だねエー』とか
『ネットは危険だからもっと曖昧にしたら・・』とかの
助言をしてくれましたが、
そんなあたりさわりのないことなど
書く気はまったくありません。
もう人生の最終の週に入って
なにか私なりの使命感のようなものがあります。
冒頭のインタヴューの言葉は
彼が大衆に媚びるために
歌や曲を作ったのでなく
自己を救済するためには
そうするしかない。
著者の神山さんの言葉を借りれば、
”歌わないことには、感情が整理できない。”のだと
思います。
だから彼は、次第に自分と大衆の境目を超越しだしたんだと
私は思います。
そうでなければ
彼は消費されて
消耗して消えていったと
思いますから・・・。
誰にも超えられない清志郎であり、
そういう集団のなかに埋もれことができなかった彼の在りかたは
孤立であろうと
孤独で阿在ろうと
無茶であろうと
そこを突き抜けていったからこそ
誰もが彼に向き合わされて、魅了されて、しまいにはその懐に入れられてしまう
そういう彼の人生のベクトル=運命性のようなものが
あったように思います。
まだ先を読まなければ・・・。
しかし
彼がなぜフェイスをペイントし
あの土派手な衣装を身に付け出したか、
そこにどんな意味やメッセージがあったのかは
私の独特な分析がありますので、
そういうことも含めて
また
書きたいと思います。
一日が忙しく、本を読む時間が10数分くらいしか
取れなかったが、それでもこの本のなかの言葉に
共感する箇所がありました。
インタヴューを受けた清志郎が
「(夏の海がどうとか、君が好きとかいう歌は)作れないの。
経験がないから。作ったとしても真実味がないわけ。
自分で歌った時に、納得してないの、うん」と
答えている。
立川からの帰りの車中で、
買ったばかりのアルバム「初期のRC・サクセション」を
聞いた。
ナルホド、ボーカルの清志郎の声は、
エネルギーがまっすぐで、腹から言葉がでており、
これは自己一致している人にしかでない
声で、まるで話すアンジュレーションそのものが
声になっている。
自己一致していない声は、
声に微妙な媚びやつくりが入り
聞く人の心と身体に撒きつくような
違和感ががはいるが、
自己一致している声は
その人間の言葉と心(動機)が
ドンとストレートに聴き手の身体と声を貫いていく波動に
なっていく。
だから彼はモロニ聴衆へと向ったと
思います。
アルバムの中には
確かに、三人のクソガキがいて
気もちがいいくらいに
言葉を投げつけてくる。
オマエ受け取れよ!
受け取れネーンじゃーよ
俺達の歌聴く資格がねーよ!と
ぼんぼん直球が飛んでくるようでした。
自分にないことは書けない。
自分が納得してない言葉は紡げない!
わたしもこのブログをそういう風に書いています。
正直にです。
だから時々自分の混乱がそのまま出てしまいます。
それでも
いいです。
私のブログを読んでくれている友人や
従兄弟から、
『強烈だねエー』とか
『ネットは危険だからもっと曖昧にしたら・・』とかの
助言をしてくれましたが、
そんなあたりさわりのないことなど
書く気はまったくありません。
もう人生の最終の週に入って
なにか私なりの使命感のようなものがあります。
冒頭のインタヴューの言葉は
彼が大衆に媚びるために
歌や曲を作ったのでなく
自己を救済するためには
そうするしかない。
著者の神山さんの言葉を借りれば、
”歌わないことには、感情が整理できない。”のだと
思います。
だから彼は、次第に自分と大衆の境目を超越しだしたんだと
私は思います。
そうでなければ
彼は消費されて
消耗して消えていったと
思いますから・・・。
誰にも超えられない清志郎であり、
そういう集団のなかに埋もれことができなかった彼の在りかたは
孤立であろうと
孤独で阿在ろうと
無茶であろうと
そこを突き抜けていったからこそ
誰もが彼に向き合わされて、魅了されて、しまいにはその懐に入れられてしまう
そういう彼の人生のベクトル=運命性のようなものが
あったように思います。
まだ先を読まなければ・・・。
しかし
彼がなぜフェイスをペイントし
あの土派手な衣装を身に付け出したか、
そこにどんな意味やメッセージがあったのかは
私の独特な分析がありますので、
そういうことも含めて
また
書きたいと思います。
by denshinbashira
| 2010-06-22 21:12
| 忌野清志郎考
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