忌野清志郎・そのペルソナの影で! |
ユング心理学では、
人間が外部世界に向けて身につける仮面の事を
いいます。
それは化粧をしたり、着るものや
身につけるアクセサリーや小道具、そして
ヘアーファッションなど
その人間が外部に向けて造り上げた
自己の鎧でもあります。
高校デビューをはたし、一時は
井上陽水が、彼らの前座をやっていたくらいの清志郎のバンドが
8年間も鳴かず飛ばずの低迷を続ける中、
それまでのフォークのメッセージ的というか
フォーク文学的な殻をいっきに捨てて、
フェイスペイングとど派手な衣装そして
ガンガンエレキが走るロックンロールへと
変身します。
「RCサクセションの初期」というアルバムを買って聴き
それと昨日のUチューブでも映像をみましたが、
明らかにその頃の清志郎にははブレーキが
かかっています。
カウンセリング理論の一つに
”交流分析”と言うのがあります。
その理論のなかに、人間は、チャイルド(子供)
ペアレント(親)アダルト(大人)という三つの人格を
その時々に使い分け、またそのひとが一嵌まった人格が
主導的になっていく。と言う理論ですが、
明らかに当時の清志朗はペアレントですねー。
ペアレントとは親のように
上から目線で指示、命令をだし、その内面には
その人の規範や規律があり、また批判や否定もつよく
自分も他人も断罪しますから
とても不自由です。
強い反抗心や批判精神や
そのメッセージや怒りのエネルギーが
ある意味清志郎の音楽の発信源になっていたのでしょうが
これだと、大衆はついてきませんし
自分もどんどん追い詰められていきます。
8年間、ながかったですねえー。その間に
どんどん追い抜かれてゆき、
前座だった井上陽水がうなぎのぼりに上昇する中
今度は彼らのほうが前座に落ちてしまいます。
その苦しい苦しい停滞のなか、
清志郎がはっと辿り着いたのがあの
フェイス・ペインティングとまるでチンドンやさんのような
ど派手な衣装、怒髪天のような髪型です。
ここで明らかにペアレントが捨てられ
チャイルドに乗り換わっていきます。しかし
そうかんたんに、すんなりことが進むわけがありません。
8年間の間にペアレントの大きな挫折と敗北があり
その自我と誇りがぼこぼこに叩かれてつぶされて
絶望しなければ・・・。
多分そういう心的推移があって、あるときはっと
彼の中に革命と気づき(覚醒)が生まれたのだと
思います。
人間が解放されるということは、
この世のレール(ルール)から大きくはずれ
絶望しつくすか、
何もかも捨ててしまうか、
つまり
失うものを持っていると解放されませんから
彼の表面意識にあった自我の規律やプライドが
捨てられたのだと思います。
そしてみごとに誕生したのが
フリーチャイルド、、なんでもやっちゃうチャイルド!
大人の規範なんか
ぶっ飛ばそうぜ、
こころの溢れることをやってしまおうという
怒髪天なエネルギー!が
彼のなかを邁進しだした時、
多くの若者の内部に眠っている同様のチャイルドが
揺り起され、エネルギーが挽きだされ、同調するなか
あっという間に清志郎はその領海線を越えていったのだと
思います。
彼の歌の詞は、すべてチャイルドの言葉で語られ、
ストレートで解りやすく、時に下品で毒づいても
なぜか綺麗です。それは、歌ッている時だけは
彼の内面が奔放に透き通っているからだと
私は思います。
そしてチャイルドに変身した彼が歌い語りかける聴衆は、
彼の言葉と音楽のなかで融解していき、さらに
個という砦に穴があき、感情がながれだし、
どんどん人間が抽象化して、
同じ魂の本質を共有するマス(量)へと変化し、
一体化していくとい現象があらわれてくる。
それは
生命の海にみんなで浮かんでいるという陶酔でもあります。
そして最後まで
彼のチャイルドの言葉は
大人との距離を縮めなかった。
これがすごいです。
あの狂気のようないでたちこそ
そのペルソナを脱がないかぎり
この世の娑婆には帰ってこれない。逆説的には
帰る気がない!
欺瞞と偽善にみちた大人の社会の中の分別なんて
俺はいらねー!と
彼はほんとうに唾棄し、捨ててしまったかも
しれません。
発売中止になったアルバムのなかで
東海地震もそこまで来てる
だけどもまだまだ増えていく
原子力発電所が建っていく
さっぱりわかんねぇ 誰のため
狭い日本のサマータイム・ブルース
何言ってんだー ふざけんじゃねぇー
核などいらねぇー
何いってんだー よせよ
騙せやしねぇー
と歌うクソガキ、清志郎。
いいねえ・・喝采!です。
舞台にたって歌い出したとたんに
オマエらの言いなりなんかには
ならねぇーという反骨が
嵐のうねりを巻き起こす!
・・・
忌野清志郎
そのペルソナのずーっと奥の芯のところに、あの
『安定や常識を拒み、他と類似した存在でいるのは 我慢ならない」という
(神田典士著”忌野清志郎が聴こえる”より)
清志郎が
うずくまっている。
ハチャメチャなペルソナの芯のところに実は
あの、写真のまじめで、誠実な自分の規範と規律を持っている
もうひとりの栗原清志が影のようにしかし
屹然といたと
私は思います。
なぜなら
あの渦巻くペルソナのエネルギーとチャイルドの狂気の中でも
そこに呑み込まれて崩壊せず、
清志郎が成立していたのは、
その内部に
彼の驚くばかり孤高なる意志と
それを支え続ける
規範と規律があったからでしょう。
※もしこれがなかっったら、彼の精神は内部から
崩壊していったかもしれません。
彼が捨ててしまったペアレントの中にあった
自己を嫌悪し、裏返って大衆を嫌悪し
上から目線で自他を断罪していた意識は
彼が獲得した、いや取り戻した、
自由で奔放な子供が、大衆の先頭にたってやんちゃし
大勢の大衆の中のチャイルドと交換するなかで
次第に熟し、彼本来の人間にたいする熱いおもい、
熱い執着となって
「愛してるかい!」という
フレーズに結実していったと
私は思います。
時としてチャイルドはわがままで
自己本位で、彼に悪意はなくとも
それにつき合わされる仲間やスタッフはたいへんだったかも
しれない。
しかし
確実にそれを支えていた民衆や人々が
いる
というまぎれもない
人間の真実は
清志郎が存在した・・と言う意味の深さを
私達につきつけてくる。
彼が高校の時に書いた
「好奇心をそそり、人々を興奮させながら、決して
そこに安住せずに『失望感』を感じさせて裏切り続ける」
(神田典士著”忌野清志郎が聴こえる”より)
のとおり、
クソガキの清志郎が、いつもハイテンションで
わけもなく興奮しながら、裸の言葉を投げつけてくる
それはなんなのかと・・・。
分厚いベールやプロテクターの下にある
自分のほんとうの心象(真実)にむけて
鬼ッこの清志郎が全身で
言葉を突きつけてくる・・・ように
私は思います。
次は大衆の中の芸能の幻像、ブルースとロックンロールを切り口に
清志郎さんを分析してみようと思っています。