おいしい瞬間! |
山梨の八ヶ岳の麓に行きました。
八重洲の歯医者さんで待っている間読んだ
「家庭画報」のなかの記事に、
こんな宿に行きたいなあ・・と思って帰ってみたら
なんとそこからパンフレットが届いており、
びっくりしました。
どういういきさつで我が家に届いたのかは
解りませんが、
今年は夏休みの旅行がまだ決まっておらず、
とりあえず、クーラーなしで過ごせる・・という
条件を満たすことで、その「ヒュッテ・エミール」という
宿へ電話をしました。
夏休みの宿を取るには手遅れな感じですが、
電話をしてみると、
ちょうど三人部屋が開いているということで、
出かけてきました。
オーベルジュ「ヒュッテ・エミール」は
広い部屋と横浜ダニエルの重厚な調度品で
中でもベットの寝心地は最高でしたが、
それよりも、お料理の美味しかったこと。
フランス料理と言うことでしたが、
フランス料理のクリームやバターなどの
濃厚さが取り除かれており、
さらりとした上品な味で
やはり日本人的シェフの繊細さと慎み深い気品が
あったように思います。
娘は今まで食べた中で、
最高に美味しいと言っています。
素材のいちばん旨いところを抽出して
舌がさっとそこに達するように
料理してある・・・とでもいいましょうかねえ。
料理もアートと同じで
まあ、すべてに言えることなんですが
ドンナ料理にもその造り手の自我が
映し出されます。
私の知っているかなり腕のいい料理人でも、
本当に”美味しい”ということをわかっている人は
とても少ないです。
美味しいものを食べさせてやろう・・・ではないのです。
人間がどういう瞬間に
”美味しい”と感じるかを知っていないとね。
口にいれて、舌から喉にいくまでの
時間や飲み込む瞬間そして
その充実が脳を刺激して
”おいしい”と精神が癒される・・・。
美味しいというのは、まさに
”心が満たされる”瞬間で、
欲望が満たされる瞬間では
なく、
欲望から解き放たれる
瞬間です。
つまり我を忘れる瞬間です。
それにはね、
料理人の自我と食する人間の自我が
ぶつかりあっては
いけないのです。
この事を
解っている料理人は
私が知る限り、ほんの少ししかいません。
料理の中にも自我は写しだされます。
自分に自信がない自我は、やたらと
装飾したり、量を多くしたり、
これでもか、これでもかと
自分の自我を顕示してきますが、
美味しい瞬間をしっている料理人は
味の核というか旨みエキスの処だけで
それ以外は削ぎ落としてきます。
旨みが純粋に確実に喉を通っていくように
料理を構成して、無駄な味付けや
集中が拡散するような添え物を
つけません。
極論するなら、
禅寺のおかゆだけでも
美味しいものは
おいしいのです。
今回、久しぶりに
その慎み深く、奥深い料理を
食することができました。
料理も人生も自我のなかに潜む
支配や顕示の欲を洗い落としていないと
周辺ばかりに気がいって
雑念が入ってしまい、
一瞬の間にとおりすぎていく
本当に大切な”核”を見過ごしてしまいます。
小さな
小さな、まさに”狭き門”
ですね。
帰りに清里にあるアールヌーボの硝子美術品を
置いてある”北澤美術館へ行きました。
ガレやドームの美しい作品を見たあと、
館の人に勧められて、
1階の日本人作家の作品を見たとたん、
その自我の猛る作品の濁っていること、
あーあと
ため息をつきました。
帰ってから
才能とはナンだろう
自我が濾過されるとは
どういうことなんだろう・・・と
考えていたら、はっと思いついたのは、
あのお料理も、
ガレの作品も
なんだか素直だったなーと
思いました。
素直といっても
単純ではありません。
よけいなものが
ついていない・・・。
もしかしたら
良い作品とか
才能とかいうものは
素直・・・につきるのかもしれません。でも
それが
いちばん
むずかしいことかも
しれませんね。
さあまた今日から、
一生懸命
働きましょう。
やれやれ
・・・・。