自分のために生きる。 |

清里高原で買った百合が咲きました。すごい迫力です!
人生というのは、
自分の中にある鏡の世界を生きていることナンだけど、
それはなかなか分りづらい。逆に
メーテル・リンクの「青い鳥」のように
自分の外の世界に幸福があると思い込んでいる人のほうが
ほとんどです。
「青い鳥」の読みかたも、
平凡な自分の日常の中に幸福がある・・・なんてところに
落ち着いてしまうと・・小島よしおじゃないけれど
なーんの意味もない・・・で。
そもそも他人とかかわるということの中には、
他人の中になにがしかの期待があり、
それが、無意識のうちに
願望として投影されている。
人間の苦しみのほとんどは
人間関係で、
人間関係の「関係」を取り出して見たとき、
自分の中にある「関係」の内容を
ヨーク見てみる。
他人に何を期待して
どういう風に自分は係わっているか、
自分のいちばん欲しいものは
なにか、
それは他人にから貰うのではなく
自分でそれを獲得スル、或いは
埋めていくことはできないか、
埋めていくにはどうしたらいいか・・・など
自分のなかを
くまなく見渡して、考える。
そのとき
自信がないとか
依存したいとか
そういう言い訳を自分にしている限り、
なーんの解決にもならない。
自分の脳の中に長年にわたって
書き込まれた、すさまじい書き込みを
直面しては
考え
書き直すという
一行ずつ書き換えて行くのだから
それはおホボ一生の仕事にもなる。
しかし
それが人生の旅で
プロセスで
覚醒(悟り)にもなってそのひとが
熟成していく。
人間の脳の中にはなぜか、
自分を客観的にみることができる
ミラーニューロンと言う神経細胞がある。
それが脳の中に現出してきたのは
おそらく、そういう風に客観的に見る・・・ということが
人間の進化に必要で、
人間は生き延びていうための必然としてだと
私は素人考えで、思っています。
苦しい人をみると
なんとかしてあげたいと思い
わたしにできる助言はしますが、
しかし
その一方で
苦しさの中なら、自分がみつけだしたことが
その人のたからもになる・・とも思います。
自分のことほど見えないことはない・・のですが
それでも
自分と言う人間の背景を見て、そしてその中身を
検証していると
自分が見えてきます。
そのときこそ
決して否定的にならず
全肯定しながら
随分苦労してきたなーとか
頑張ってきたんだなーと
、
自分が無意識に続けてきた
ひとすじのことや
自分の得意なことや
そして
最も
・嫌なこと、
・不得意なこと
・やりたくないこと
などが分ればしめたものです。
自分と言う人間をどうすれば
生きやすくさせてあげられるか、
どれを生かし、ナニを足して
ナニを捨てるか・・・。
そうして
自分を解放してあげるのです。
言っておきますが
世の中の
だーれも
その人が解放されてはいけない・・・なんて
言ってませんよ!
逆に解放したらいけないのではないかと
自分が思い込んでいるだけです。
或いは
思い込まされている、
だけです。
生きるのは自分
死ぬ時も
自分ひとりで
死にます。
生まれるから死ぬまでの
自分の一本道を
どうするかは
その人しか決められない。
一度きりの人生の瞬間瞬間が
どれほど
たいせつか。
のびやかに
かろやかに
そして
自由自在に充分に生きたときこそ
死を素直に受け入れられるのだと
思います。
まあ
とにかく
わたしは
そう
やって見せて
死のうと
思ってますけど。
くれぐれも
自分のために
いきるんですぞ。