愛するということは・・・? |
どういうことか・・・。
むずかしいですねえー。
だいたい「愛」というのはナンなんでしょう?
得たいのしれない、なにかふわふわとしたもので
だからこそさまざまに、
物語され、装飾され、幻想化されて
愛のものがたりが創られていきます。
親子の愛、
兄弟の愛
夫婦の愛
そして
社会的な献身愛、
などなど
人間の関係の中で起きてくる欲求と充足ですかねえ。
そして
人間の根源的な感情で、
自分がきちんと認められ、もてなされ、
受け入れられたとき
全身に満たされていく感情。
逆に相手との関係で
自分の行為が正当に受け入れられ、
評価された時に満たされる
自己充足。
人間が二足歩行になって以来
人間の赤ん坊は未熟なまま誕生し、
その後成人になるまで、
”親"の保護を受けなければ
生きていけなくなりました。
他の動物に比べて、
随分長い期間親との関係が
続きます。それも
保護すると保護される関係として、
或いは心理支配する、支配される関係として
です。
その間、充分なスキンシップを始め、
親子の関係が成熟して行けばいいのですが、
まあ親も試行錯誤、人生の学びの途中ですから
様々なストレスが生じてしまいます。
殆どの人間は親子の葛藤の中を生きていますから
子供が充分な愛情で満たされることは
不可能です。
いろんな親子のケースがありますが、
それぞれが独特のストレスを抱えており、
その結果、どの人間も、どこかに欠乏感や
欲求不満を持っており、
それが対人的な幻想を産みます。
特に思春期、恋愛、結婚ということにおいては、
異性に対する幻想の中に
自分の親子関係、或いは
子供時代で満たされなかったことが
投影されて、幻想が膨らみます。
そういう自分の欠乏感や
欲求不満が裏返って
それを満たしてくれる、
解決してくれる・・・ような幻想が
恋愛や異性に
投影されるのです。
また別のケースとして
自分の欠乏感や願いや絶望が裏返って
弱い人や気の毒な人に対して
自分を投影するメシア(救世主)症候群という
心理になり
献身的な愛情や滅私奉公、極端な禁欲などの行動に
転化されていきます。
ボランティアが好きな人や
宗教的な救済が好きな人
あの宮澤賢治などに見られます。
要は自分の中にある
ぽっかりあいた穴を
対人的な人間関係で
補おうとして人間が
”愛”という幻想を
造りだしたのだと
私は思います。
”生命”は常に生きるために前へ進もうとする。
そのとき自分の指針になるイメージが必要でそれが
希望や信頼や愛情や夢という可能性を示唆し
人間を肯定する幻想だと
思うのです。
希望や信頼や愛情は
生きるための肯定的エネルギーとなります。
だからそれを必要として人間は
現実の中にそのエキスを注入しながら
生きている。
ただ問題は
それらは、
やはり幻想で、憧れで、理想のイメージで
現実の人間の実相、実態とは
かなりの落差があります。
極論を言うと”ない”から
さまざまに脚色される・・・ですかねえ。
さて
自分が思っていたような
”愛”なるものが・・・ないとなったら
どうしますか?
そんなことない・・・と打ち消しますか、
それとも
がっかりして絶望しますか。
自分が理想にしていた愛情
自分が期待していた相手からの愛情がない。
それはそうでしょう、だって
誰もが欠乏し、誰もが欲しがり
誰もが、誰かから貰いたいと
思っているのですから・・・。
そういう幻想を幻想とおもえない
恋愛や結婚は
いつのまにか、愛の奪い合いになり
あれほど好きだった、或いは
愛しあっている・・と思い込んだ相手との
愛情を巡るバトルになってしまいます。
実はね、
相手に期待していた愛情がない、或いは
相手は自分の心の穴を埋めてくれない・・・と知ったときから
ほんとうの愛情への道がはじまります。
そこから人間が、
ガキから大人へと成熟していく
人生の本番が
始まるんです。
よーく自分のをみつめてみてください。
自分が欲しいのは、
どうも、どうもという
バランスの取れた大人の愛情(感情)では
ないでしょ。
おそらく
子供のように、
無邪気に自分を愛してほしい・・とい願望では
ないですか・・?
子供の頃に溢れるほど愛されたかった。
自分のことを大きな掌で守って欲しかった。
無条件に、自分のことを愛し受け入れてほしかった・・・・という
まさしく、子供時代の欠損が
深層の無意識領域に潜められて、それが
恋愛や結婚に投影されてしまう。
しかし
それは
叶えられません。
親の保護から離れ
自立(自律)していくということは
なにもない、という荒野の入り口にたって
自分と言う人間の人生の試行錯誤を繰り返しながら
新しく対人関係を
創りだして行くということです。
自分が思い描いたいた人間の姿は
なかった。
思い描いていた夢や希望は
霞のように消えてしまった。
け。れ。ど。
そこから自分のほんとうに欲しい
人間関係を
自分が
創りだしていく。
そのとき
”人を愛する”とは
どういうことなのか・・・を
考える必要が
アリマスね。
自分を愛するように
他人を愛する・・・ということは
どういうことなのか。
いったい
自分は
どのような愛されかたを
したいのか。
同様に
他人はどのように
愛してあげればいいのか。
自分と格闘しながらも
考えることが必要です。
そして
大人になったのですから、
知力が必要です。
知恵が必要です。
人間は
みーんな傷ついています。
その傷
愛情の欠落や
そこから来る不安や怯えや
怒りや
危機が
人間社会のおおきなものは戦争から
小さいものは日常のコゼリアイ・・と
なってしまいます。
愛情の欠損や無力感は
信頼や、希望を信じることができず
疑心暗鬼や猜疑心にかられ
自己利害や被害者意識に乗っ取られ
自己武装し、攻撃的になり
心の余裕がありません。
自分のことしか
アタマにありません。
それらをたぐっていくと
その先には
ちいさな
怯えた
無力な人間の子供が
立っています。
人間として成熟できていないのですね。
いや
成熟することを
学ぶことが出来なかったのでしょう。
傷ついた子供が
成熟していく道
それが
人生だと思います。
それにはまず自分が自分の空白をうめる覚悟が必要です。
他人に依存しない。
そしてそれは
生きる中から一つずつ
直面しては
知恵や知力を働かせ
答えをみつけは
自分の空白を
埋めていく。
その道程のなかで
人を愛するとは
ひとから
愛されるとは・・・の
答えを見つける。
見つかった答えは
きっと
その人の
財産になると
おもいますよ!
人生は未知との遭遇の旅です。
初めから
答えのある旅なんぞ、
面白くもなんとも
ないよ!
失望や落胆など
ケッ飛ばして、
ワクワクしながら
挑戦しましょう。
彼に昨日の夜、素直に話をしていきたいという気持ちを伝えました。
そして、今私がどう思っているかも。ぐらぐら揺れることも言われましたが、自分の方向から見て、意見を否定したりせずに彼の言葉を私なりにしっかりと受け止めたつもりです。
またそのことについては書かせてください。
愛について、これからも試行錯誤しながら、考えていきます。
ありがとうございます。