人間を信頼する。 |
無断外泊自由にした。
まあそれ以前から、
休日など、小学生の息子は朝遊びにでたら
夕方までかえってこず、
一日中、腹いっぱい遊び呆けていたから、
小学生、幼稚園時代も、ホボ自由放任だったとも
言える・・・・笑い!
子供を徹底的に信頼する。
子供だって、ふと出来心というか、いろいろな
心も模様があるだろう、しかし
芯のところで信頼されている・・・という安心感のお盆があると
どんなにはじけても
チャンと自分を取り戻す。
もちろんそれは大人だって
同じなんですが、
私とは育った環境がちがう父ちゃんのほうが
自分が信頼されている・・・という実感が薄かったかも、
だって
たびたびごまかそう・・・なんてことが
あったからねえ・・・笑い!
ひとを信頼するということほど難しいことはない。
もともと自分の中に不信や不安があるから、
自分さえ信頼できない人間が
他人を信頼できるはずがない。
だからどうしても自分の手の中で
コントロールしようとして
指示したり
命令したり
助言したりして
相手が自分の視野の中から見えなくならないように
心理工作する。
人を信頼するということは
相手にすべて任せきるということで
簡単に手をださない。
助言や
指示をしなくても
相手が
最後には
自分で気づき
ちゃんと
自分をたてなおして生きてく
そういう人間の生命力を
信じることが
信頼するということだと
私は思っている。
ことわっておきますが、
丸ごと信頼するですよ、
都合のいいとこだけ信頼するのじゃ
ないですよ。
それができない人間は
不安や不信に駆られて動いてしまう。
ついつい相手を縛る心理的な言葉を
投げてしまう。
また相手をコントロールしようと
或いは
お互いの心理を詮索しあって
いつまでたっても
強い絆が
結べない。
でもねー
信頼することができると
これほど
楽なことはない。
相手の中の魂を
人間のなかの生命力を信じて
待ってりゃーいいんですから。
いやいや、待ってることすらいらない、
ほおっておきゃー(任せておくとも言う)
いいんですからねえ。
私は人間の歴史は
人間を自由に解放し
信頼しあう事を獲得する・・という道程だと
思っています。
人間も
集団も組織も
そして
国家も
社会も
他人を、隣人を、民衆を、人間を
信頼しつくす。
なぜなら生命は
安心すると活性化し
不安や不信に駆られた瞬間に
ストレスがかるからです。
ひとを信頼することは
簡単にはできない。
自分の中には
不信の蜘蛛の巣が
体中に張っているから。
どうしてもその巣の中から
覗いてしまうよね。
でも
ちょこつとずつ、
迷いながらでもいいからさ、
自分を安心させながら、
心のなかに
信頼の根を
育てることで、
自分も
相手(他者)も
ずいぶん
救われると
思います。