魂で握手! |
どうしても、団塊の世代と現代の若者とで
自我の立ち居地のズレがあるような話になった。
4,50代の人のことはわからないが
我が家の子供30代の人間からすれば
会社や世間のものさしでしか考えることができない、
或いはそういうことに
がちんがちんに、
がんじがらめになっている
おじさんやオバサンが
そういう自分をヘンだとすら思わず、
挙句のはてにはその価値観を
自分に強要すらしてくる
それが
わかんない!
そういうとこにいる限り
ビジネスも経済の行き詰りにも
ナーンも新しい穴をあけることができないと
いう。
息子はいつも短パンにサンダル履きで
まあーちょっと異様といえば
いえなくもないが、
(きっと常識的な人からみたら、異様なんでしょうが・・・笑い)
その頭に入っているアイディアや発想力には
わたしも度々おどろかされる。
息子の服装は多分
既成の習慣や観念からに抜け出てないと、
何も新しいことは思い浮かばないよ・・・という
彼らしいひとつの表現かもしれないし、
モット言うなら
服装とか慣習とか儀礼とかを取っ払って
その人間が何を考え、どういう内容をもっているか・・・そこを
見抜こうとする意志がないと付き合えない。
自分のもっている常識から
外れているけど
この人間が言っている言葉の本意は
なにかオモロイ!というところまで
自分を抜け出してくれないと
いくらオモロクて新鮮なアイデアを話しても
話がいつも
そういう自分達の守っている砦の中の次元に
内容がディスカウントされて
無駄になる・・・という。
そういう短パンの人とは
取引しない・・・と言われたこともアルヨ・・と
苦笑していた。
たいがいの人はこの日本の国独特の
世間一般の儀礼や形式や
そしていわゆる常識的といわれる人間観や
人間関係などを無意識のところに
ものさしとして持っている。
それがいわゆるお付き合いとか
距離のある人間関係なら
それほど問題にはならないと思うが
自分にとって
自己の停滞やあるいはスランプや
危機などを乗り越えるには
そういうところから逸脱し
自分のフレームの外にでない限り
沈没してしまう。
今の日本などまさに
沈没寸前で
それでも自分の頭の中の
固定観念や、既成観念から
ようよう大人たちは抜け出せない。
そこには
人間の外見に有るものしか見えない
見ようとしない
また
自分達の現状や過去を維持することのほうに
シフトがあり
自己を防衛、保身しようとするブレーキかかる。
意外性や逸脱や変人にたいする
怖れの危機感が働いてしまう。
マズはその偏見をすてないと
新しい社会
活力の有る社会は
いつまでたつても
こないよ!と
私は思います。
見るからに異相の人でも
そのひとが社会常識から逸脱しても
その考え方や世界観がおもしろく
交流すればするほどたのしい。
ドンドン自分の中から
意外なものが引き出されて
世界が塗り変わっていく。
つまりその人とは
外見でもないし、
地位や格付けや世間常識などではない、
実は
素の人間どおしの交流が出来始めると
人間はお互いを尊敬し合い
お互いの交流がとても実の有るものに
なっていく。
しかし
えてして人間は
その人間が着ている外套のほうにばかり
視線が行くものであるし
私の知る限り
無意識にそういう杓子で
相手を見ているひとは
かなり多い。
なぜなら自分も分厚く外套を
着込んでおり
自分独特のものさしや
世界観や人間観をもっておらず
つい世間的なものさしで
相対してしまうからである・・と
私は思う。
外套を着込み、
手には手袋をはめ
その手袋をはめた手でお互いが
握手しても
本当の手のぬくもりや
手から伝わるその人の魂を
感じ取ることはできない。
分厚く着込んだ外套で抱擁し遭っても
その人間どおしの思いが伝わるわけがない。
だから
そういう人間関係の担保として
親子とは、夫婦とは
こう有るべきであるとか、
或いは友情とはとか
ビジネス上の礼儀とかの
社会ルールみたいな
共同の幻想として
あたかも
その社会のパスポートのように
蔓延させる。
そしてそれは次第にその人間達の
自主性を奪いがんじがらめにその自我を
からめとッていく。
自分が捉われている
常識とか、既成観念、また
自分にとって当然とおもっているとは
果たして、相手にとってどうなのか・・を
疑うことすらしない人間は
すべての人間に自分をモデルとして
あてはめて関係をつくってしまう。
当然それはいつかは破綻するのであるが。
では
相手の中にある、
もっともその人間の核のところにある
やわらかい、善きこと、おもしろきこと、
自分には
思いつかないような意外性や
天外なこと、そして
その人間が持っている素直な
魂と交流するには
どうしたらいいか。
まずは、自分が着込んでいる外套を
脱ぐことですね。
自分が思い込んでいる
こう有るべきという思い込みをはずす。
そして自分が不自由なことや
自分の意志にはずれること
自分が居心地のわるいことや
めんどくさい事など
自分が生きることにたいして
必要ないことを棄てることですね。
自分が自分から抜け出し
自由になること。そして
自由になることを
怖れない!
そうしないと
どうしても視線にプロテクターがかり
視線が澱んだり
鈍くなったりしますから。
相手に対しては
できるだけの先入観をはずして
外見で価値判断しない。
外見は実はその人の内面を
あらわしているんですが、
重要なのは
その外見を偏見や常識の価値判断で
みない。
逆にその人らしいという見方をし
時と場合によっては、
その意外性や自分にはないものが
自分の固定観念に穴をあけてくれることが
ママあります。
また
きちんと目を見、その
表情をよくみる。
表情を見た時に自分の感情を
できるだけ
かぶせない。
相手を自分のものさしで
善、悪、良、劣などの裁断をしない。
また
これもとても大切なことですが、
自分の興味が湧かないものには
付き合わない。
付き合っても
深くせず、さらっとは離れる
それは自分の無意識が
必要ない・・・と教えてくれてることですから。
社交として関係を維持したり
言葉を放つのは
ほんとに
無駄なことです。
我息子はこの社会で苦戦をしております。
安藤忠雄さんではないが
連戦連敗で、いまだ
赤貧のくらしです。
でも
オモロイです。
もー彼と話し出したら
百花繚乱に話がはじけ
たのしいこと、たのしいこと!
人間が自分の外套を脱ぎ捨てて
手袋ではなく
素手で相手と握手し
魂のところで
交流する
そういうことが
可能になってきたら
この世界は才能で溢れると
思います。
そうなると
いいね。