自主性と輪郭。 |
ランチをいしょに食べた。
そのとき息子が開いたイヴェントの話がでて
そのイヴェントに参加するには、
ただ会場にくる・・という以外は
一切自由にして催したと
話してくれた。
もーこれ以上ないというくらいの
ゆるーい関係で、
誰が来たともわからないし
逆に自分が来た事を息子に告げるのもよし
ただきて黙って参加して帰るのもよしで
すべてはその人間のいちばんいいように
参加すればいいというものだった
らしいです。
以前このブログでも書いたトイレランチでも
書きましたが、
人間はすべてが
その人のいちばんいいように生きるのが
大切で
たとえトイレでランチをしようが
それはそれでいいです。
人間が自分を表現するということは、
その人のなかで起きて来る欲求を
どのようにそのひとが
扱うかということで、
そこに自由があります。
仲間とランチをするのも
ひとりでトイレでランチをするのもまったく
表現としては同等で、
他人が介入すべきことではありません。
しかし
この国にはいろんな人間幻想が
はびこっており、
他人と仲良くするのがいいとか
人と人とは助け合うものだとか
孤立することはかわいそうだとか
もう数え上げたらきりがないほど
おせっかいが
はびこっています。
大学によっては
トイレランチを禁止する張り紙をはったとか・・・で
なんという幼稚さかと
思います。
電車のホームや中でのアナウンスも
おせっかいが過ぎるし、
先日銀行にいったら
警備員の親父がそばで、しっつこく
振り込み詐欺がどうタラで、
所沢では○○件も
発生してどいるから
ドウたらとか
もう振り込みに集中できないので
思わず
「うるさい。黙ってろ」と
怒鳴りつけました・・・笑い!
うちには何回も
振り込み詐欺が
電話をかけてきているので
警察に通報してあり、
交番のおまわりさんへ直通の電話が
出来るようになっています。
ああ話が大分それてきたけど、
なにを言いたいというと、
人間の中には
そのひとの時間というものがあり、
物事はそれぞれの人の時間のなかで
熟していく。
その時間に他人や他者が
介入してはいいけない・・と
言いたいのです。
日本の国のおせっかいは殆どが
"集団を維持するための、意識”が
基底にあり
個人の内面にたいしては、
ものすごく鈍感です。
鈍感どころか権力的ですら
あります。
そこいらのオバサンやおじさんなど
そういう意識の塊の自分を
なんとも思っておらず、
困ります。
人間は伸び伸びと手足を伸ばし
身体中からエネルギーが外へと放射されるとき
脳もからだも活性化するのに、
萎縮させることばかりやります。
また
他人をみはることばかり
やります・・・この国の大人は。
でも今回の息子のイベントが
いかに個人の内面を大切にしようとしたかと、
息子の中に確実に
私の思想や理念がバトンされたなーと
思いました。
私自身そういう圧力や
おせっかいと
戦ってきましたが、
もうそれは孤立無援の戦いで
疲れはてましたが・・・。
日本は百年前までは
士農工商という
厳しい身分制度の中にあり、
つい60数年前までは、
封建的家父長制の序列の
がんじがらめに縛られた意識で
人々は生きてましたから、
戦後民主主義が入ったとしても
"個人”という意識や方法がなかなか
理解できないのは
仕方がないです。
アノ漱石も、龍之介も、
太宰も、いまの大江さんだって
ずーっとそれを引きずって生きてきて、
今も生きている。
個人という意識が確立されていくと
集団にまぎれていた自分から
個人という
裸の自分にならなければならない。
それがちょうど今の若者たちが
肌で感じ、
少しずつ獲得している
自意識で、
まだまだ脆弱で幼いです。
私から見れば
やっと
この国の人々の脳に
自他の分離が意識し始めてきた、
少しずつですけど。
そのよちよち歩きのなかに
トイレランチがあり、
他人に気づかれないように参加して
帰っていっても、
その人間の内面のなかでは参加した意識や
なにかが動き始めている。
どうように
引きこもりだとか
孤立だとか言われても
私から見れば、
集団のなかでぼやけた自分ではない
”自分”を
チャンと持っており、
それが
素晴らしいんだよ!と
伝えたい。
まだまだ時間がかかると思うし
わたしももう長くは生きてはいないけど、
それでも
自分に目ざめたわかものたちが
少しずつ自分の輪郭を
受け止めて
自分も
他者も
たいせつに共存する時代がくるように
頑張って生きて欲しいです。