ゴッホとゴーギャン、二人のチャイルド! |
”ゴッホ展”を見に行きました。
何年か前、
パリのルーブルだったか
オルセーだったかは
忘れてしまいましたが、
下の階の宗教画からずーっと見てゆき
印象派までたどり着いて
ゴッホの部屋へ入った途端に
大きな光のオーラに包まれ、
絵画における革命のようなものを
感じました。
以来いつか
オランダのゴッホ美術館に
行こうと思っていましたから、
今回は
とても楽しみに行きました。
まあ残念ながら
やはり
目ぼしいものいは
数点しかありませんでしたが、
それでも
私が歳をとったせいもあって
ゴッホのことがヨーク
わかりました。
以下はいつも通り
私の独断と偏見ですが
分析してみました。
もしかしたら
ゴッホやゴーギャンのファンから
絞殺されるかもしれませんが・・・笑!
まあ
書いてみます。
今回はっきり認識したのは
ゴッホがお手本にしたミレーはじめ
他の画家たちは、
技術的にはゴッホより上手いのですが
ゴッホに比べて彼らは画家として
絵を描いている・・・という立ち位置におり、、
ゴッホは明らかにメッセージを描いている。
つまり他の画家たちに比べ
ゴッホは何を描きたいかが
明確です。
描くモチーフの中に
彼の全身が投影されている。
つまり
彼のインナーチャイルドの
自他の分離ができていない分
すべてのモチーフが彼と一体化して
描かれている。
だからそこには彼の分身が躍動し
感情を吐露し、
思いが入魂されていて
見るほうに
メッセージを突き付けてくる。
その
客観性が欠けている分
まるでゴッホ自身がそこにいるかのような
生々しい臨場感が
絵から浮かんでくるのです。
同じく会場にあった、
ゴッホに誘われて
アルルに行き、同居するが
ゴッホに殺されそうになったゴーギャンの絵は
画面が希薄で、
どうしても、ゴッホのように
無心に自我の投入ができず
絵ずらを描いてしまう
アダルトチャイルドが
そこにいるように
思いました。
純粋であるが
なんでもかんでも
自分のことと
ごっちゃにして
思い込みの激しいゴッホは
他人との距離が取れない。
逆に冷静に冷めているが
自分を隠し、
思いがねじけているゴーギャンも
他人とかかわることができず、
胸に短刀を忍ばせている。
この二人のチャイルドが
出会い
面と向かっていたわけですね。
自分の根拠がつかめない、ゴーギャン
自分の根拠しかないゴッホ
自分の肉片を刻むように
キャンバスに絵の具をたたきつけるゴッホ
空気のような幻想と希求を
薄く塗り付けるゴーギャン!
自分を疑い続け
投げ出したゴーギャン。
常に他人の中に自分を投影し続けたゴッホ。
枯れ木のモチーフは
木の枝が無残におられ
自我がくじかれ
へし折られたてもなお
求め続けたんだねゴッホは。
極北のふたつの星!
二人ともが
どうしても
自分をごまかせず
求めて
求めてね。
有名なゴーギャンのことば
『我々はどこから来たのか?
我々は何者なのか?
我々はどこへ行くのか?』
は
哲学でも、思想でも、文学でもない
自分の根拠がもてず、
さまよい続けた人間のことばの
ように、
私には思えますが、
ゴーギャンファンが読んだら、殺されるねー!
彼らを神格化せず、
幻想化せず、
ひとりの小さな人間として見るとき
深ーい
共感が湧いてきて
胸が痛い!
※ 蛇足として、
遠い東洋の日本に
あこがれたゴッホも
タヒチまで
流れて行ったゴーギャンも
もうすこし
足を延ばして
東洋まで
辿りついていたら
唯一神のキリスト教とは違う
草木のように枯れていく
東洋の思想に
救われたかもなあー!
特に
ゴーギャンンは
頭がいいから
そう思いますヨ。