お笑芸人の矜持!さんまとタケシ! |
ビートタケシも
それぞれすごい人なんですが
お笑芸人というフレームで見た場合,
2月15日にブログで、
芸人としてすごいのはさんま氏で
タケシ氏ではないと書きましたので、
もっときちんと書きます。
しかしそう考えているのは
私の独断で
でもまあ、
書いてみます。
私が人間を見ようとするとき
その人間の奥の奥にある、
その人間がどのように
”生きようとしているか”という処にある
動機に
光を当てて見たいと
思っています。
その動機のとこにあるものが
澄んでいればいるほど
その人間に惹かれ
その人間の”珠玉”を見たような
感動があります。
その人間が自分の闇の襞の奥に
ぼんやりと微かに見ている”光”
その光から逆光して見えてくる後ろ姿を
厳しく険しい私の目が見つめて、
私に言葉をくれる。
それを書いてみましょう。
以前にも書きましたが
世の中の表面に浮き出たい或いは
特別な人間として上昇したいという人間の
心の奥底には、
限られた身内、友人ではなく、
不特定多数の人間から、
愛されたい、支持されたい、認知されたい・・・という
欲望、願望が潜んでいます。
できるだけ多くの人間から
愛されたい、認められたいというものです。
そういう負の動機がバネになって彼らは頑張って
いきます。
だから彼らは自分の家族をほったらかしてまで
その名声を得ることの方に力を注ぎ
彼らのたいがいの家族は離婚や崩壊や
そしてさまざまにトラブルを
背負ってしまいます。
本当は一番大切に絆を築いていかなければならない
家族より
不特定多数というきわめて
不確かで気まぐれでバブルなものに
その泡が消えるまで
取りつかれてしまうのですね。
そこには
愛されたことが
きわめて希薄な自分がおり
愛情を貰うことを渇望している
チャイルドがいます。
そのチャイルドは
自分が家族に愛されていないという欠損感から
不特定多数のにんげんという
極めて抽象的で
実体のない人間から
愛(エネルギー)を得ようとするのです。
ほんとは、それはとてもばかげていて
愚かなことなんですよ。
愛された実感がある人間は
家族という、自分の周囲にいる
具体的で実存する人間たちを
大切にし、絆を築こうと努力します。
ほとんどの庶民たちは
いろいろな家族の持つ障害や
病理を引き受けながらも
家族と向き合ってお互いを
支えあって
生きてます。
その不特定多数の人間によって
受け入れられ支持される代償として、
彼らの多くは消費されて、
浮かんでは消えていくのですが、
それでも
そこに自分をかけ
究めていこうとする人間が
生き残っていきます。
その
極まっているふたりの人間として
私はさんまとタケシを
思います。
なんでもそうですが
動機はどうあれ
究めていく殺気(気迫)を持った人間は
凄いですよ!
やりぬいていくんですから。
ふたりには
そういう殺気があり
それが人間力として
魅力になっています。
生半可に大衆に媚びる人間は
そういう厳しさを持っていませんから
人間的魅力が付いてきません。
そういう中で
タケシはお笑芸人にもかかわらず、
映画監督として
賞をとり、
栄誉と名誉名声を掌中にしました。
しかし
私はそういうタケシとお笑い芸人ということに
ちょっと違和感を
覚えます。
もしそうだったら
初めから映画監督を究めていけばいいことだし、
人生の途中から映画に目覚めたなら
芸人をやめて映画を究めたらいい。
映画を作るには
沢山のお金が必要で
そのために芸人やってお金を稼いでいるなら
芸人として客を舐めており
邪道です。
なんなのかなあーと
思いますが、
冒頭に説明したように
愛情を得るという事の大きな
欠損を埋めることが
翻って権力志向や支配欲へと
変色していったのかなーとも
思います。
タケシ氏には
自分の可能性に対する幻想や
執着があり、
まだ立ち位置に迷いがあるようにも
見えます。
そして
この人は
ほんとうに”頭がいい”んですね。
常に自分をカムフラージュしているようにも
見えます。
ちゃんと自分の逃げ場を用意している。
だから
芸人という受け皿を
離さない、いや
離せないのかなー!
政治のことに首を突っ込んでも
自分を中和したとこに立たせて発言し
その立ち位置はやはり傍観的で
本来受ける厳しい批判や反応には
芸人として茶化して、
玉をよけて
頭の上を通り過ごさせている。
私はタケシを批判したり
貶めるつもりは全くありませんし
タケシはタケシでとても尊敬し
愛しています。ただ
彼の中に
とてつもない孤独の暗渠や弱さが
みえて仕方がないのです。
ほんとうに彼は大衆と一体化したいのかなあー・・・と。
映画監督として
不特定多数の人間からの尊敬と栄誉の冠を被っても
彼は、満たされないように
私には見えてしまう。
さらに
自分を究めていかないと・・・でも
なにを
究めるの・・・?
何をむさぼり喰らうのかなー?
さいごは
鬼に、妖怪になるつもりかなー?と
思います。
さてさんまです。
最初さんまが出てきた頃
彼は機関銃のごとく喋りまくり
その遮断ない言葉の攻撃の裏には
決して自分を見抜かれないような自己防衛があり
煙幕を張る、
人格障害か脅迫神経症かと
思いました。
かなり異常に見えましたが
最近のサンマを見るにつけ
覚悟ができてきたんだなーと思います。
それは
芸人として
笑い倒されて死ぬ・・・という覚悟です。
タケシにくらべ
立ち位置が
定まっています。
芸人とは
道化とは本来、
権力の対極にいる哀れな人間です。
しかし、失うべきものをなにももたない
最強の自由言論人です。
芸人だけがその言論で
権力を、権力者を笑いものにし、虚仮にして
もてあそぶことが
許されます。
芸人だけが
民衆の絶望に付き添い、
その代弁をひきうけます。
だから
芸人として
自分を虚仮にして
笑い倒されて死ぬ…という事が翻ったとき
彼は世界中を掌中にしたという事なんですね。
家族の代償に愛した
不特定多数の人間との大きな
一体感がそこに
あります。
不特定多数の人間からの支持を最後まで
得続けながらそこには
人間として自分の矜持を、
逆さまの誇りを、
成就させて、
愛する民衆が爆笑するなか、
人生が全うできたという
この上ない充足、
逆支配の
非所有の所有を
成し遂げようということです。
一昨日
自民党の石破議員がさんま御殿に出演して
そのそばでもう一人の議員が
石破をヨイショするごとく
サンマに向かって
「石破さんに総理大臣になってもらいたいと
思うでしょ」と
言いましたら
サンマが一瞬で真顔になり
「オモイません!」と
切返しました。
あっぱれです!
さんま御殿では
国会議員もピエロ化されて
もてあそばれ
みんなが思っていることを
一言で言ってしまいました・・・・・痛快です!
人間社会のヒエラルキーの
頂点には、
決して立たない・・・しかし
民衆の哀歓や労苦に寄り添い
自分の身を差し出して笑いをとる。
そして
サイテーの人間として
馬鹿にされ
侮られコケにされて
死ぬ・・・・という
道化の王道を行く。
果たしてこの先
ふたりがどうなんるのか
分かりませんが
いや
もう
道は分かれたなあーと
私は思います。
タケシ氏は偉大なる
”芸術家”になるか
大プロデュ―サーになるのか
わかりません。
同じ時代を生きたものとして、
サンマの最後を
見れたら
嬉しいです。
たけしさんの最後は
ただただ彼の
平安と安息を
祈るのみです。