離婚について・その3/ どんな人間の中にも、希望をみる。 |
だからこそ書かなきゃなーと思いますので
書きます。
歳をとればとるほど
人間のことが分かればわかるほど
人間とはなんて奥が深く、そして
複雑なんだろうと
おもいます。
昨日から
「どんな人の中にも、希望をみる。」という言葉が
頭の一角を陣取って離れない。
しかし
この言葉は、感傷的、文学的な言葉ではなく
人間のリアリズムだ・・・と私の深層が言ってます。
安易なレベルで受け取られないように
書け・・・とも
言ってます。
離婚の場合にも
そうでない
人間関係のトラブルにでも
よくあることですが、
救いのない争いのなかで疲れた自分を救うために
相手を”悪い人間”だ・・・と
レッテルをはってしまう。
そのレッテルも
その人間はもともと”悪い要素をもった人間”で
どうしようもない・・・という結論をだすことで
決着をつけようとする。
自分の手におえないと
納得しようとする。
その方が楽です。
ろくでもない人間
救いがたい人間
悪魔のような人間
でも
その人間は特別で
生まれつき悪い、救いがたい、悪魔のような人間か・・と
いうと、
そうではない。
そうなっていくプロセスを彼らは生きいている。
言葉にすると、ほんとうに安易で軽くなるから
言葉にしたくないのだけれど、
彼らの中にも柔らかく、瑞々しい心もある。
しかしその人間が
自分を見失っていくなにか、
彼らを追い詰めるなにか・・・が
あったはずだ。
それを、
”愛情に飢えていた”とか
”愛されなかったから”だとか・・・と
私は安易に言いたくナイ。
なるほどその人間は
自分の自我を立て直せないほど
自我が挫かれ
汚されているかもしれないが
そういう自分に絶望しつくしたかも
しれないが。
私は決して同情なんかしない。
私なら
それでも突き放す。
言い訳には耳を貸さないだろう。
しかし
そういう人間たちでも
その中に希望を
見つけたい。
その人間が自分を見失っていく物語の
始まりには
きっと
希望をもったあどけない子供がいたはずだと。
それは何重にも積み重なってしまった
人間の欲や、垢や、汚れのヘドロの下に
死にそうになりながらも
あるはずだ。
人間の脳とは
そういうものだから。
自分が瞬間瞬間変化しながら
過去が積み重なっていく、
そういう自分の過去を使い廻しながら前へ
進んでいく。
しかしそれが何かの力を加えられることによって
だんだん歪み、思い込みと妄想に汚染され、
不安が恐怖へと転換されていく。
不安と恐怖にのっとられた人間は
他人を信じられない。
他人を信じられないということは
もちろん自分も信じていない。
自分を信じられない、
自分を信頼できない人間が追いつめられて行く先は・・・。
哀しいねー。
でもひとつだけ方法がある。
それは
深く人間を理解することです。
表面的にすぐレッテルを張るのではなく
その人間が通ってきたプロセスを
深い人間観、人間の物語として
冷静に眺めることです。
何が原因で、その人間が
そうなったかを。
もともと悪い
救いがたい
悪魔のような
人間ではなく
何がその人間を追いつめたかを・・・ね。
レッテルを張って自分の心に納得させ
決着をつけたら
楽になるかもしれない・・・しかし
それは、
自分の中に人間不信や、人間恐怖を
残してしまう。
もう一度
・ どんな人間の中にも、希望を見る。
その希望を否定したら
自分の中に
人間(他者)に対する
不信と恐怖が募るだけです。
自分を見失っても
やがて、自分を取り戻せた自分のように
自分の中には
柔らかい
瑞々しい自分もいる。
それは他者も
おなじことです。
もちろん何万人にひとり
何十万人にひとり、
のたうち廻って苦しんで
闇の破滅に呑み込まれた人間もいますよ。
でも
自分には理解しがたいことが起きても
そこをてがかりに
じーっと人間のことをみつめ
理解しようとすることから
自分の人間洞察が深くなり
豊かになり
それが
やがては
自分を救う(掬う)ことに
繋がっていく。
人間を安直に理解しない。
人間は
なんと
深いものか
と
思います。
できるだきけ自分の知力を磨き、人間に対する大きな視野を身につけていくことこそ、最終的には心の平安を得られます。直面する度に、一段ずつ自分が成長していく、そのために頑張ってください。