独り言! |
鍛金作家チギラフミコさんのアルミの石鹸トレイと
四方木綿子さんのガラス瓶です。
瓶のほうはオリーブオイルを入れて
食卓で使おうかと思っています。
俳優、入川保則さんの癌の延命治療をせず、
死を受け入れる生き方
いいですねえ!
自分と同じような死生観を持っている人がいるなんて、
嬉しいです。
私も癌は手遅れぐらいでいいと思い
一切の検診をしません。
食べられなくなったら、
終わりです。
その代り
”生きる”を存分にやろうと思っています。
自分の欲求や願いを
できるだけ叶えてあげる。
物やことに執着せず、
サラサラ・すたすたです。
でも、もうやりたいことは
ほとんどやりました。あとは
こ『遺言ブログ』で、
人間いついて書き残すことだけですかなあ=!
昨日は丸善で、
空海の「三教指帰」と「 秘蔵宝鑰」
ヘーゲルの「精神現象学」を
買ってきました。
特に空海の「 秘蔵宝鑰」はちょこっと覗いただけで
わくわくするような言葉がありました。
人間は人間という”現象”であることを
どのように具体的に
自分の言葉にして書き残すか、
できるかなあー?
〇 〇 〇
一昨日親幻想、母親神話、親孝行幻想を書きましたが、
人間は様々に自分の不安や怖れを投影して
幻想を作ります。
○○であってほしい。
○○が理想で
○○すべきだ。
という自分の願望がひっくりかえった
それらの幻想は
さいごには
○○に違いない…という思い込みで
自分の意識に完成させて、ピリオドを打つことにより
自分の生き方の手引きにして
安心します。
それがいわゆる、既成観念や
常識で、なんとなく小さなものは
家族や仲間、大きくなると集団や社会、国家で
強いもの、指導的な立場の人間や
権力をもった人間という
発言力のつよく、影響を与えられる者の
思惑を沁みこませて
市民幻想として
上から下方へと行き渡っていきます。
しかしほんとうにそういう幻想どおりかどうかは
究めていかがわしい・・・と
私は思っています。
それに対抗するのが
(拮抗する)といってもいいのが
いわゆる”河原乞食”文化、
市民社会から弾き飛ばされた
市民という枠の外にいる
人々の視点です。
まあ話がどんどん難しくなりますので、
この辺りくらいにして、
私たちも
自分の真実・・・というのを
よーく眺めていないと
そういう既成観念や常識とかいうオバケに
やられてしまいます。
いったい
自分が思い込んでいるのは
そうなんだろうか・・・?と
私はいつも思います。
親子幻想や母親神話や親孝行」。。。というなら
じゃあー
親がいない人間から見える風景はどうなんだろうか???
親幻想のなかに意識がくるまれている人間と
親幻想の外にいた人間とは
どこが
どう
違うのか、
その人たちが生きている現実は
それぞれ違う様相を呈しているのか?
いや
そうじゃあありません。
親幻想にくるまれている人が見上げる空も
親幻想の外にいる人が見上げる空も
同じです。
ただ
見上げる人間の意識が
違うだけです。
どちらの空も同じ現実で
そうなると
では
その現実をどう生きるか・・・が
問題でしょ。
その現実を親幻想に包まれていきるか?
それとも
自分の固有の目で見極めていきるか?
もし
ほんとうに
自分が自分の幸福をつかみたいなら
自分を確立するために
つまり
自立的に生きる・・・しか
ないんですね。
こういう自我の覚醒
それを私は
切実に
思います。
でも、私は、自立を考えるとき何か、ニュートンが見た木から落ちる林檎を思い出します。
これは、死を受け入れて生きる。と、言う感じと似てると思います。
私達は自立しているのではなく、生かされてこの世に居ると。
だから、何時かは知らされず、ポトリと命が尽きる様な。。。
私にはまだまだ時間が欲しいです!
と、言う事はまだまだ死を受け入れていない次元です。
hashiraさんのブログに出会って、何となく嬉しいです。
私も、もしそうなった場合は延命するつもりなく、死ぬ時はそのまま死のうと思います。
私は明日もし死んだとしても構いません。
もちろん、絶望してるわけではありません。
それが、当たり前だからです。
死が当たり前だからです。
むしろ、延命治療したい人の気持ちが分かりません。