知的センサーを磨く! |
なかなか思いうかびません。
きっと日本中が同じような思いで
先行きの不安をかんじながら
成り行きをじーっと我慢しながら
見ているのだろうと
思いまます。
昨日あたりからやっと
計画停電を検証する意見が出てきましたが
わたしからすると、
マスコミの反応のなんと遅いことかと思います。
なぜ私が計画停電に対して首をかしげたか・・・という
ことを書こうと思いますが、
これは決しえて東電を非難するものではなく
物の見方、判断の裏にあるものを
どう読み取るか・・・ということで
書きたいと思いますので、そのようにご承知おき
ください。
地震が起き、津波が発生し
原発がおかしくなったことから
電力についてなんらかの指示があるとは思いましたが、
それが停電であるまではストンと理解できました。
しかし
その停電が”計画停電”ということで
上から区画を仕切り、しかも4月まで、もしかしたら
数か月の長期にもわたり毎日停電をする・・という
東電からの一方的な申しわたしが下されました。
発表されたのが災害の11日から
あまりにも早い3月13日で
次の14日から施行する・・という
その早い判断と施行に
私はびっくりしました。
こういう重要なことを
あまりにも短期間に
しかし
急遽の暫定的な施行で、
とりあえずというものなら
理解できます。
とりあえず
時間を頂きその間に
綿密に調査計画をねる
効率よく有効停電のプログラムを組む・・・という言うのであれば
首をかしげることはなかったのですが、
そういうことでは
まったくなく、
いきなり強引にしかも
数か月の長期も想定しての
発表ということで
ははーんこれは
自分らの労力の手を抜いて
黄門様の印籠ではありませんが
上から国民を平伏させた
安易な計画だと直感しました。
おそらくその視野の中に、
一般の基礎産業である
町工場や、商店や、小規模病院や
事業所などは入っておらず
(これらの基礎産業がじつは
日本経済の屋台骨を支えていることなど
眼中になく)
大規模停電が起きたとき
自分達の失態を責められないような
自己めんつというか防衛のほうが優先されたと
ほぼ直感的におもいました。
繰り返しになりますが
もし東電が
市民や国民の側に立ち
停電によるリスクを少しでも軽減しようとする姿勢があれば
決定するにも
もう少し時間をかけて
準備を怠りなく
また市民のコンセンサスをとりつけていくという
プロセスを踏んだはずです。
なんでもそうですが
重要なこと
本質的なことは
企業や集団の決定レベルでも
また
人とひととの間のレベルでも
そう簡単には答えが出ません。
そこに
考察・・・という時間が入り
その考察ののちに
事は
慎重に決定され
人はしばしの沈黙ののちに
口を開きます。
逆になにかをごまかそうとするとき
相手が考える暇を与えず
或いは
気づく猶予を与えず
決定をしたり
弁をまくしたてたりします。
今回の東電の発表に
私はおそらく
なにか裏があると思いました。
案の定、安直に
区画割をして
上からくだしたのですね。
そこには国民を疲弊させないように
経済が渋滞しないように
まあ
緊急の未曾有の災害時ですから
そういうことなど
言っておられない・・という事だったのかも
しれませんが・・・・、
そういう配慮も
戦略も
ありませんでした。
東電も政府も
社会は
生きている・・・なまものだということを
忘れているように
私には
思えます。
社会は”生きているにんげん”のフィールドです。
その”生きているにんげん”が見えず
自分達のつごうに合わせて
人間を一塊の団子や物のように
扱い
上意下達をしてしまう官僚的な
感覚。
私たちはこういう人間を
見抜き
自分達の都合のいいように
性急に事を運ばれ
あしらわれないように
知的センサーを
磨かねばと
思います。
※物事をあおる必要はありませんが、
すべてを感情のレベルで一緒にせず、
(例えば、被災地でも頑張っているんだから、
停電ぐらい我慢しよう・・・という感情論ではなく。)
冷静に精査し
ダメなものはダメ・・・という表現をしないと
あの”年金”のように
勝手ほうだいにやられてしまうと
私は危機を感じます。
前ブログのリンクも拝見させていただきました。震災の奥底の一部ではあるかと思いますが、そこだけでもわかってよかったです。奥底をテレビで流さないのが納得できません。