それぞれが風のように・・・・! |
効き始めたのか、私の中で
外的世界に対して反応していた棘が
少しやわらいでいるような気がする。
あの時
『他者と自分をどう止揚するかというと
それは自分で自己完結した生き方を
貫いていくしかないこと。
自己完結できたときはじめて
他者の中に投影される自分も完結し、
他者と自分との統合(止揚)が可能となる。』
と書きながら
はっきりと
自分と他者(外的世界、世間)の関係が
まぎれもなく
自分を投影した世界で
良くも悪くも
自分の存在のすべてが映し出されていると
実感した一瞬でありました。
それは
自分の心の中に起きてくる
攻撃的衝動や嫉妬や否定したいという棘、
つまり
そのことを受け入れがたくて
苦しんでいる自分の脳の記述、や地図の偏りを
さーっとか風が吹いたみたいに
悟らせられた。
なるべく自分の脳の偏りからくる
棘を取り除き書き直していく
そのことはとても大変なことだが
それでもここまで漕ぎつけたのだから
やはりできるところまで
やりとげようと思う。
それができてくると
どうなるかを先験的にイメージすると
私の中で他者というのが
私同様に
自分を抱えて、私と並列に生きている風景が
視えた。
一瞬にして見えた風景は
私も他者もただそこにいるだけという風景で
林や森に対立ち並ぶ”木々”のように
自分と他者が共生している。
私は介入されることもなく
介入することもなく
そこに自己完結して
生きている。
つまり
原理的には
外的世界と思い込んでいるのものはすべて
自分の心理の投影であるから
自分に起きてくる現象はすべて、
自分が起こしているに過ぎない。
自分が満足することも
自分が傷つくことも
自分が喜ぶことも
自分が怒ることも
自分が不安になることも
すべての根源は自分にあり
また
すべてのことは自分が自分の
見えざる意志によって
意味づけられ
価値づけられ
言葉づけられている。
それは具体的にいうと
13日にかいたブログの記事
『自分のすぐそばにいる人間は
ことばを変えれば自分が自分を投影している
人たち(自分の分身)で、
その人たちとの間で起きる
喜びもまた争いもすべては
自分自身が直面しなければならない
自分の問題性や課題です。』
つまり
自分に起きてくる対人関係での事象すべては
自分の姿が他人に映し出されているにすぎない。
だから解決するには
自分の中の掃除と矯正しかないと
いう事です。
おっとこういう書き方は
自分にやさしくないねー。
自分のなかのよけいなものをお掃除し
また考え方や反応の仕方を
しっかり見つめて
心の奥のほうで少しでも
おかしいよという声が聞こえたら
勇気をもって変えていく・・・ということです。
・・・・・
頭で理解できている
これらのことを
自分の生きた実感として
どう
身体化するか・・・。
是非
身体化したいと
私は思っています。
まだ64歳だから80歳から見れば
はなたれ小僧かもしれませんが
それでも最近私は
人生はなんて短くあっけないんだろーと
しばしば思います。
だからこそ
生きてることを
ほんとうに大切にしなくてはとも
思います。
自分の中の偏りで
いたずらに他者との葛藤がおきるなんて
それも、もったいないなあとも
思います。
だから自分を神様のように完璧にしたいというのでは
ありませんよ。
人間の脳と心理のメカニズムをすこし
理解できたこの幸運を
自分の人生に生かしていきたいの
それだけです。
若いころよく読んだ
井上洋治神父の言葉に
「神様は風(プネウマ)のよう」というのが
心に残っています。
人間も肉の存在として
なまなましい自我の葛藤を持たされているけれど
本当は
それぞれが
風(プネウマ)のように生きてるんだよ・・と
私は実感し
伝えたい!
まだまだですけどねえ・・・トホホ!
70歳くらいになったら
風のようなエッセイを書きたいなあー
書けるように
ガンバロー・・・・・!
全開して咲いている
シャクナゲ、美しいです。
だいだい大好きな山法師の花・・?が
今年も咲いてくれました。
年を経るのがたのしみにもなってきます。
いつもありがとうございます~。
今ではとても不思議な心持ちですが
出会えてよかった、と思いながら
denshinbashiraさんの文章をいつも味わっています。
私も風のように行きたいな。。。
私もいろいろな葛藤や毒を排し、風のように軽やかに生きて行きたいと思います。