どうか、私の中に強い気を巡らしてください! |
「どうか、私の中に力強い気(エネルギー)を
送ってください。
大地に根を張るように
不動の気(エネルギー)を巡らしてください。」
と
書いている。
3月11日の震災と原発事故以来
どうも気が弱くなっている自分があります。
おそらく、震災も原発も解決の見通しが立たないことを
どこかで不安に感じる毎日があるからではないかと、
思う。
被災していない私でも
こう言う状態なのだから
被災されている方々の心労は
いかばかりかと思う。
そう思いながら
先日ある作家のブログで
被災された方々を
被災という字をかぶせて一括り
被災者と呼ぶのはどうか・・・という
記事がありました。
まあ、言葉というものについての
彼女なりの考察でもあったのですが・・。
その作家はとてもまじめに真摯に
物事を考えようとしています。
だから”被災”された人々とも
人間としてきちんと向き合いたいという気持ちからの
検証だとは
思いますが。
しかし
私は被災された人々は
被災者と呼ばれようが
呼ばれまいが、
被災した人という固定名詞を
被されようが
そういう事から”自立して”
人々は生きている・・・と
思います。
人が生きるとは
そういう事だと思っていますので、
この記事に関しては
ちょっと首をかしげてしまいました。
便宜上と言ってはいけないのでしょうが
人々は自分の中で、様々に起きることを
認識をするために
いろいろな固有名詞を被せて
脳の中に記述しようとします。
被災された不特定多数の方々を
被災されているという状態を記述するために
被災者と呼んだとしても
それは呼んだ側の人間の問題で
被災者の方々とは
関係ない。
むしろ
人々が”生きる”という事は
そういう枠を超えて日々生きるという事で
いつどんな時でも
人間は自分を生きる生命力をもっており
そこに
絶大なる信頼を持っていないと
ともすると自分の感情におぼれ
逆にそういいつつ
被災者を特化して
そこに感情を過剰に移入してしまう
という
ことになってしまいます。
被災者の方も
必死で日々を生きている
そして
わたしたち被災していない者も
懸命に日々を生きている
だからこそ
同じ日常の日々を
共有できるのです。
どこにいても
どの場にいても
日々は平等にやってくる。
そして人間はその一日を
せいいっぱい
生き切ろうとする。
被害にあわれた方も
私たちも
です。
という
生命力を
信頼して
粘り強く
気力を
持って
同じ時代を
一緒に
がんばりたいと
思います。
一緒にね、
ガンバろうね!
茨木のり子さんの詩を探していたらたどり着きました。
そのブログ記事も良かったのですが、
他にも気づかされる記事が沢山あって思わず読み入ってしまいました。
私もノホホンと生きられるよう、精進したいものです。
がんばりましょう。ありがとうございました。
政治家達をみていると、子供達の未来は、どうなってしまうのだろうと不安はありますが、若者を信じ、日々を大切に残りの人生を送りたいものです。若者子供達を応援します。
ゆっくり、ゆったりと数年かけるくらいの気持ちでいてください。これからの人生を楽しんでください。
面識も無いのに優しく向き合ってくださり、心から感謝申し上げます。