空海と最澄…求道と躍動とへ! |
読み終わりました。
深い感慨があります。
もともとは最澄と空海が断絶した訳を
もっと深く詳しく知りたいなあーという動機で
読みはじめましたが、
よーくわかりました。
そしてさすがに司馬さんです。
人間という現象の深くまでを
ことごとく
チャ―ンと了承しておられる。
顕教として
仏教を究めようとした最澄と
宇宙の物理現象として
人間やすべての
生きとしいけるもの、
天体や自然までをその
そのダイナムズムの中に組み込んで
体系化し理論化しようとした空海との
断絶を
よーくわかりました。
おそらく最澄は
一心に求道の道を究め
自己を洗浄し
自我を透明にしてゆく中での
自己救済としての天台宗があり
あくまでも
ソリッドに
スパイラルに
しかし狭く限られた中での
求道、自己追求があり
それはそれとして
個々の人間に問いかけられるものとしての
気品に満ちた自我の解放と
衆々の救済があり、
どちらかというと
私は最澄のほうに近い。
しかし一方の空海には
すべてを循環させうねっていく
言葉や論理や規範の埒外にある
生きものすべてを貫く普遍的なエネルギーや
現象としての生命の躍動と輝きをもって
救済しようとする。
その言葉を糸口に身体性をとおして昇華されていく
呪詛的な真言密教があり
これもまた、
本能や、潜在意識の中に潜む
「生きようとする」エネルギーをひきだし
壮大な宇宙的連関の中に位置づけられた、
「わたしがいきることとは・・。」の
ことわりが
展開されてある。
イメージとしていえばあの
曼荼羅の世界観です。
おそらく書物や経典を通じてより
自己追求をしていた最澄にとって
この、空海の身体的ダイナミズムは
理解できなかったかもしれない。
たぶん・・・。
読み終えて、私の中に
一隅を照らす最澄と
生命が現象として躍動する空海の世界の
この二点の座標を結び
止揚する一点の上から、
1200年の時を超えて
二人を眺めている自分が
存在している。
いや、
存在できたことの
”幸運”への感慨が
つきがってくる。
言葉に拘泥することもなく
現象に振り回されることもなく
客観の一点から自分を見ている
自分がいることが
ほんとうに
嬉しい!
生きることは
いよいよ面白く、
ちょっと誇大な感じもするが
宇宙へと、拡散していく自我と
自分の内部へ収斂していく自我を
両手に抱えながら、
自分が立っているこの大地の下をさらに
掘っていきたい。
自我なんぞという小さくて
末項な世界に捉われてなんか
いたくない。
そういうものへの執着を
ときながら
現象として瞬間瞬間起きてくる「私」を
”わたし”がどう
生かすか?
はたして釈迦が垂らした”蜘蛛の糸”を
どこまで上っていけるだろうか?
ぞういう艱難をこえて
いけるだろうか?
とりあえず
常に
自我を
叩き、
流れの中で
洗浄しながらだと
思う。
どうぞ
そうすることが
できますように。