リーダー論その3 …トップモデルとしてのリーダー |
リーダーということから
強烈に思いつくのは、
〇自我の汚れを取る・・・ということと
〇権力(リーダーシップ)の使い方を知っている
の二つで
たぶんこれは、リーダーとして失敗している人間を
わたし自身が観察しながら
その原因がこの二つに色濃くあると
感じてきたからだと
思う。
特に二つ目の権力の使い方については、
時と場合により恣意的に動く大衆を率いて
ある成功まで導くには
その使いかたを間違えた途端
あっという間にリーダーは墜落し、或いは
捨てられてしまう。
権力つまり強い指導の力は
もろ刃の刃で
最も効力を発し、
最も効果的な使い方を熟知していないと
それはただの竹刀同様に
大衆に見透かされ
愚笑のたねにされるだけだ。
伝家の宝刀は
めったに抜かないが
抜いたらすごい!
抜いたら凄い厳しいことを
自分達が突きつけられる・・・というくらいの
見えない力を持っていて
抜かない状態で
威力を発揮できれは
最高です。
そのためには
リーダーが抜きんでている人間力を
もっていなければならない。
その人間力とは
リーダー自身がその集団を成功に導くために
無欲に近い、しかし自己犠牲や求道的ではない
自己基盤を持っている。
そして
公平である。
この
公平であるというのは
みんな平等というのとは違います。
人間は段差がある。その上で
起きてくる出来事に対して
個人的感情を超越したうえで
事態の優先順位に基づき
裁断できるということである。
自己犠牲や求道的なのは
その裏に
ナルシズムや自己憐憫や
自己焼却や自己打擲が潜んでおり
それは成功禁止令になっている可能性が強い!
そうではなく
自分も
みんなも
成功し、
生き延びていく…ものでなくては
ならない。
そしてもう一つの
〇自我の汚れを取る・・・と言うのは
自我の汚れのほとんどは
自我が傷ついていているために
現実をその傷口を通してみてしまう。
現実がその傷によって歪んでみえてしまう。
そしてその傷口には不安や欠損感があり
どうしても
自己執着が付着してくるため
物事全般が
自分という自我に収斂してしまい
自分のフレームを大きくはずして
社会の動向や
時代の推移を
見極めることができにない。
その集団や企業の目指すところは
その社会や
その時代のもつ
「価値」を担うことで
社会や
時代が目指す「幸福感の価値」を
担うことでもある。
それを見極めるには
超自我的に
自分を超えて世界を凝視し
歴史的な推移のなかで
科学的に分析し
そして仮想できる力が
必要で、
それには
自分の殻を破り捨てる必要がある。
そして
人間の社会は常に
後者が前者を超えてゆくというサイクルの中で
進化してきている。
自分達が獲得しはぐくみ蓄積してきたものを
いずれ後者が超えて前進するという
潔い自覚と取捨の上に
時代をパノラマ的に
見渡すことができるためには
自分の思い込みを常に破壊して
創造へと向かわせなければ
ならないからだ。
自分の信念を破壊すことを恐れないためには
自分に付着している自己執着や不安や
そういう自我の汚れを克服しなければ
手に入れることは
できない。
むずかしいねえー!
そしてその社会の幸福の価値の一端を
仕事として担う、あるいは
ひとつの役割
片隅の光として
自分が担う喜びが
人々の
自分の仕事や
役割に照り返されてくると
人々はイキイキと
し始める。
勿論、労働や役割に対する
正当な”対価”が
報酬として
きちんと支払わなければなりません。
それは社会の末端を担う仕事から
ラインの一部品を担う仕事から
そしてリーダ達ーまでが
自分の仕事や役割に全力で取り組むことが
更に未来へと繋がり
更に想像力を刺激し
幸福の価値を産みだすものだという
明確な獲得目標としてに見えてくる事でもあり
人々はその獲得に
意欲になっていく。
そのためには
トップリーダーが
社会と時代を鋭く洞察する力を
養い
現実的な戦略と
目の前の方策への絶え間ない思索の中
トップモデルとして
いかに
人間として
解放され
自在に生きているかだと
私は
おもいます。
自分に捉われず
常に古着を脱いで
あたらしい事へ挑戦する!
そのことは
人生を
オモシロくさせ
自分という人間の創り出す価値が
確実に社会の一端の
価値でもあるという
生きる充実になると
思います。
※ これまでの物を所有する、富を所有することが
「幸福の価値」であった時代は
確実に
次の「幸福の価値」へと
ゆっくり胎動し始めていると
私は
実感しています。
皆さんはどうでしょうか・・・。
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