おおいなるシャドウ! |
題は”おおいなるシャドウ”です。
どうしてこういう題になるかというと
シャドウこそ、
人間生命の本質的躍動と
私は思うからです。
あゝかなり、私は緊張して
どきどきしています。
上手くかけるかなー!
シャドウとはユング心理学の中に出てくる
人格の原型の一つで
ちなみに
その原型とは
・グレートマザー
・シャドウ(影)
・アニマ・アニムス
・セルフ
そのほかに
・老賢人
・トリックスター
・英雄
などがありますが、
特に強烈なのが
グレートマザーと
シャドウです。
人間は大きな円、◯のようなもので
表面意識が作る外面に現われた自我と
一対を為すように
その大きさと同じ大きさの影を◑
内面につくりあげます。
外側の人格に光が当たると同時に
それと対をなして存在する影(シャドウ)ですね。
シャドウは様々に抑圧されたり、
疎外され
自分によって押し殺された
或いは我慢させられた
無視された
もう一人の自分で、
実は
シャドウのほうがいつも
”ほんとう”の事をいう自分なんですね。
しかし
その自分で生きることを許されなかったり
その自分だと対、親や周囲の人間と
困ったことや、やっかいなことになると
思うと、それをちょっと過激な言葉でいうと
抹殺したり
意識の底のほうに押し潰したりして
対人的に仮面のいい方の人格を
生きてしまうのですね。
しかし
押しつぶされ、
無視されたシャドウが
消えるかというと
そうではなく
無意識の底のほうに
ひっそりと生きていきます。
そして時に
シャドウは
押しつぶされる苦しさや
無視される”無念”さに耐えきれず
常に”屈折”した形で
その人の人格に訴えかけてきます。
あるときは
人格を乗っ取ろうとします。
その”屈折”した訴えは
シャドウにパワーがある場合は
怒りや批判や嫉妬ややっかみの感情
そして相手や対象に対する否定てき攻撃などの
わたしに言わせれば
”究めて健康な
攻撃的感情や思い”・・・となって
そのひとの心を占めようとします。
そしてシャドウのパワーがあきらめて
弱くなり、内向していくと
嘆きや、呪や鬱や絶望となって
生命力を蝕んでいきます。
ここで読んでくださる方に
チャ―ンと
頭に叩き込んでおいてほしいのは
人間の心を見つめる場合、
いや
すべての事において・・だと
私は思いますが
人間を
良いと悪いとか
善とか悪とか
道徳とか
倫理とか
社会通念とか
常識とか
法律とかの判断で、
見ないでください!
いわゆる、人間集団が作り出した規範で
みないでほしいのです。
あるいは、
裁く目で
捉えないでください。
(しつこいけど・・・笑!)
そこにあるのは
”命のいとなみ”として存在する
ひと・・人間です。
シャドウが常に訴えたいのは
”あなたのほんとうの心は、
〇〇でしょ”
なのにどうしてあなたは
ほんとうのことを言わず
ほんとうの自分を生きず
いい子を装い
わたしを裏ぎって生きようとするの・・・・という
自分の本心に
気づいてほしい・・・という
サインです。
例えば
嫉妬の感情がでてきたら
表面意識は
”嫉妬してはいけない”
あるいは
”自分が嫉妬していることを
けどられたくない”と
まるでそんな感情など
ないように
ふるまっているけれど
本当は嫉妬して、悔しくてたまらないのでしょ!
なぜ悔しい、かというと
ここにる
私の存在を
ちゃんと見ほしい
認めてほしい
受けいれてほしい・・・あなたがいるのに・・。と
シャドウが言います。
なぜ、無視するの
そういう愛情に飢えた自分を
どうして見ないふりをしたり
抹殺するのさ!
と
その人間の感情を
揺すぶります。
揺すぶって気づかせようと
してくれるのですよ1
そういうシャドウの感情はまた
自分が気に喰わない人間や
嫌いな人間という風に
他人へと投影されて
時に現実的な攻撃となって
いじめや
批判や
マスコミの個人批判などに
あらわれてきます。
また嫌人意識や
私がよく陥る人間嫌い病・・・(笑)なども
そうですし、
人間の中の厄介な感情となって
でもそれは
シャドウが
私の存在に気づいて!
わたしを光りの中に出して!という
叫びでもあるんですよ!
シャドウがもっと進むと
今度は
単発的な軽い嫉妬や怒りではなく
ドロドロとして
相手への攻撃心や支配欲や
征服欲となり
時に
巧妙な口実をつけて
相手や対象を蹴落とそうとします。
でもね
ここいらへんまでは
まだ健康だとおもいまよ!
問題なのは
すごーくいい子のふりをした人が
巧妙に他人をコントロールしようとすることです。
シャドウはねー、頭がいいんです。
だから
自分の中の嫉妬心ややっかみや呪いを
他人の中に滑り込ませ
自分本体ではなく
他人や家族や子供を心理支配して
自分のダミーに使ったり
たきつけて
自分の代理に相手や対象戦わせたり
まーずるい、頭脳プレーを
企みます。
すごいですよ。
なぜ・・そうなるのか・・・・というと
そういうシャドウの心
やっかみや嫉妬や怒りや呪いなどの
心が
人間社会では、もってはいけない、タブーの心
あるいは
忌むべくこころ
ダメなこころ・・という位置づけがあるからです。
つまり
シャドウは”市民権を持っていないこころ”ナンですね。
だから
せいせい堂々と
真正面から戦わないで
屈折した技巧を持って
現実(光の中)「へ
でようとするのです。
でもそれも
冒頭でかきましたように
自分の中でおしつぶされた”ほんしん”が
苦しいからなんですよ!
そしてもっと残念なことは
そういうシャドウを無視続けると
今度はシャドウが
その人に内部から
ささやきます。
例えば
あの人はあんなこと言っているけど
本心は違うんだよ・・・という疑心を
ささやくのです。
それがひどくなると
周囲の人間がみんな信じされなくなり
またいつも
見張られているような錯覚や
そしてさらに
他人のここをを深読みしては
勝手に自分で解釈して
落ちこだり
それがひどくなると
自分ばかりがという
被害者意識に乗っ取られて行きます。
この被害者意識というのが
クセものでねー!
自分で勝手に被害者意識に陥って
さらに
自己を憐憫します。
そしてこの
自己憐憫には
絶望というエクスタシーが
ある。
このエクスタシーに味をしめると
それがもう中毒のように
その人の人を
乗っ取っていきます。
倒錯したナルシズムとでもいいましょうか、
不思議ですねえ
人間は・・・・。
自我が危機に陥ると
逆に興奮するのでしょうかねえー?
思えば人間が人間猿から人間に進化して
そして言葉を獲得して
意識がうまれるという
高次で複雑な神経系統をもちましたが
一方では
動物・・・の生命の歴史でもあり
それは
ずーっとお互いが収奪しあうという
危機の歴史でもあります。
人間の脳の中には
自分以外を否定して自分を防衛する動物的本能と
逆に他者との共生をはかるために
自分をコントロールする理性とが
共存しています。
つまり存在そのものが
矛盾の中にあり
それが場面場面で人間の生命の保全を図るために
働いてくれています。
その時行き過ぎた理性の過剰は
本能を抑圧し抑え込み
もともとが
動物であったことさえ
意識の中では葬り去られてしまいました。
もともと生命の維持をめぐって
争い、収奪するのを
きれいごとにして
なかったことにする…じゃなくて
だからこそ
理性の働きを透明に磨き
共存、共生へと常に
覚醒しなければならないと
思います。
シャドウの働きは
上っ面ばかりの軽薄で生きようとする人間達に
或いは自分に
カウンターパンチを食らわせまます。
お前の本心はそうじゃないだろう・・・!
現実をごまかさずに
自分をごまかさずに
よく
目を
凝らして
みろ!
とね。
シャドウがあるからこそ
人間は多くの物語や
アート作品を創出してきました。
特に
物語に出てくる”悪人”は
主人公なんかより
生き生きと描かれます。
それは
悪人のほうがより人間の本質に近いし
冒頭書いたように
本当は人間にとって
実感そのもので
人間の本質的躍動なんですね。
おもろいです!
そしてそれらの作品を生み出す
アーティストや作家の
”原動力”は
シャドウですぞ!
シャドウがいるからこそ
物語は生き生きと
躍動するのです。
カウンセリングの最終決戦は
シャドウとの戦いです。
イジワルでひねくれていて
ああいえばこういうという
口が達者で
隙があると頭脳プレーで
ごまかそうとする
シャドウとの戦いは
文字通り命がけです。
しかし
シャドウの言葉に
耳をかたむけてごらんなさい!
そこには
その人自身の深い悲しみや
耐えてきたことばにならないほどの
重い思いや
そのひとの命を保全するために
必死でその人を
支え、
満身傷だらけの
もうひとりの
自分がいます。
自分の心の深みに
縮こまって
座っているシャドウを
掬い上げて
いたわり
ねぎらい
そして
受け入れて
自我に統合していく。
それができたとき
はじめて
自分の全部が
あらわれて来るのです。
いわゆる
〇の自分です。
ただねえー
カウンセラーとしては
このシャドウとの戦いは
ホント命がけ
私の恩師などは
相談者と喧嘩も辞さず
ひっぱたきましたからねえー!
もう救い出したい
一心だったと思いますが
無謀でしたねえー・・・!
まあ
私はひっぱたきはしませんが・・・・笑!
それくらい
人間は
深いんですね。
シャドウこそ
その人に統合されると
それまでは
ものごとの
片方しかみえなかったのが
世界が立体的に見えてきます。
つまりシャドウがみていた
裏の世界と
表面意識が見え
表面の世界とが
合致してきて完成されていきます。
シャドウがくれる情報が
その人の宝ものにも
なるんです。
ものごとも
人間社会の
光も影も
清かなるものも
毒なるもの
聖なるものも
闇のもの
汚れたるもの
すべてです。
すべてが
人間そのものです。
そういう自分のすべてを
愛したらどうですか・・・。
そういう自分のすべて
生き抜いたら
いいです!
シャドウ、その
おおいなるものへ・・・・!
このブログを
捧ぐ・・・!
書けたかなー!
ヤレヤレ・・・・・!
『伝心柱マガジン』もやってます。
良かったらどうぞ!
● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
でも記入はご自由にどうぞ!
少し放心状態になりました。
あまりにも私の中で腑に落ちたので。
あぁ、シャドウの方が
ワクワクしてきました(笑)光が当たったのかもしれません。
時間はかかるのは承知ですが、光が見えました。読んでいて、気づきました。あとは日常の中で体感で気づいて、シャドウを統合していきたいです。ありがとうございます(*^^*)