2011年 10月 13日
アンデルセンの童話より…マッチ売りの少女! |
私が書こうとしているのは
アンデルセンの心の深層に
あったのではないかと思われる
心理で
アンデルセン自身も
気づいていないものかも
しれません。
カウンセリングをしていると
その人の表面的な姿かたちではなく
そのひとの体の奥の方に
その人の話す言葉の表面的な意味の
更にさらに深いところにある
そのひとの最も”原初的こころ”が
ぼんやりと見えてきます。
それはどの人のものも
美しく、幼子のこころのように
透明で素直でそして
いかにもほんのすこしの振動で
壊れそうな心です。
しかしその原初の心は
大人になるにつれ
分厚い皮をかぶり
つるつるとした仮面になり
そして、小利口な知恵がついたあたまは
どんどん自分を擬装して
取り繕う言葉を吐き出します。
ついには
その本人でさえ
自分のなかに
やわらかくて美しい原初のこころがあるなど
忘れ去ってしまいます。
原初的な心
もしかしたら、
魂と呼んでもいいのかもしれない
その心を
どうしたら
その人が気づき
取り戻せるか・・・・と
私は渾身をこめて向き会うのですが
なかなか分厚い壁は突破できません。
でも
少しでもその兆しを求めて
針の穴ほどでも開けられれば
いずれは気がつく日も
くるかもしれないと
希求して頑張るのですが。
でもそれには
機が熟してくるまでの
たくさんの挫折が必要ですねー。
さてそれではマッチ売りの少女。
今回このお話を読んで
ずいぶん長いあいだ
私はこの物語を読み違えていたことに
気づきました。
この物語は貧しさの中で
マッチを売る
かわいそうな少女の物語では
決してありません。
そうではなく寒さの中で凍え死んだ
少女のことをアンデルセンは
祝福するかのごとく
最後を締めくくっています。
つぎの日の寒い朝、
街角にうずくまっている少女の姿がありました。
ほおは真っ赤で、くちびるにはほほ笑みが浮かんでいます。
去年のさいごの夜、こごえ死んでしまったのです。
あたらしい年の朝日が、ちいさな体にあたっています。
ひざの上には、マッチが束ごと燃え尽きていました。
「体をあたためようとしたんだな」人々はいいました。
だれひとり、知りません。
少女がどれほど美しい光景を見たか、
どれほどのきらめきのなかを、おばあちゃんといっしょに
空をとんでいったか。
自分だけのあたらしい年にむかって。
驚いたことに少女には
喜びがあるのです。
マッチ売りの少女には
アンデルセンの母親が
子どもの頃に寒い中を物乞いにだされ、
お金をかせげなければ家に帰れなかったたことが
モデルとしてあるのかもしれないとか、
この物語は
貧民層の出身であるアンデルセンの
貧しいものに対する慈しみではないかとも
言われています。
もしかしたらそうかもしれませんね、
しかし私はもっとその奥を
覗いてみたい。
この物語は「雪の女王」からさらに4年後に
書かれています。
「雪の女王」でははじめて聖書の世界の事が
書かれ、
天国にはいるには
幼子のようなこころでないと
門をくぐれないよ・・・と書いていますし、
おさなごのように純真でないと
ほんとうのことは見えないし
いちばんたいせつなものへと
突き進む勇気も
もてないよと
書いている・・・ように
私には思えます。
きっとなにかがあって
アンデルセンは自分の深いところに
息づいている
チャイルドの
重要性に気づいたんだなーとも
思います。
しかしこのマッチ売りの少女の場合は
その勇気も希望もすべて取り除かれ
マッチ以外にはなんにもなく
ただただマッチを燃やす
その一瞬に暖をとり
自分を愛してくれたおばあちゃんが
迎えにきてくれるということしか
ありません。
さらにそのおばあちゃんに誘われて
彼女は死によって、
生きることよりも美しい光景を
手にいれています。
はて、アンデルセンはなにを
伝えたかったのでしょうか、私たちに・・・。
難しいですねえー!
いちばん簡単なのは
貧しい少女への悲しみの共感を
とることです・・・・・が。
しかし
私は読んだ瞬間に
なにか癒されました。
今までは物語の筋のほうに
意識をとられていましたが
今回は
”言葉”を読んだような
気がしたのです。
筋立ては悲愴ですが
言葉はむしろ
喜びで結ばれている。
そして書かれていることは
どんなに貧しくとも
また寒さで凍え死ぬ瞬間に
女の子は微笑んでいる・・・としたら
そこには
死をも超えるなにかを
アンデルセンは
見ている。
死をも超える何かとか
もしかしたら
”生”をも超えるなにか
つまり、
生と死を超越するものを
暗示したかったんじゃないかと
私は思います。
実はたぶん、そうじゃないかなあーということを
人魚姫や錫の兵隊の物語に
ぼんやりと見つけていたものがあります。
それは自分の魚の醜い尾を捨てて
人間の足を獲得した人魚姫の人間化が
見事に失敗をしてしまったこと。
逆に錫の兵隊は、
片足という不完全な姿であるばかりに
粗末に扱われ
ドブネズミにまで
おまえは存在する資格があるのかと問われ
最後は炎の中にほうりこまれてしまうにも
かかわらず、
姿がとけて
もとの錫の塊にもどったそれが
ハートの形であったこと。
それは片足どころか
なにひとつ損われていない
完成された形です。
それは多分不幸な境遇や
生まれながらにしての差別のなかでも
どんなにんげんにも
普遍的に与えられているものが
あり、
それは姿かたちや身分や貧富を超えて
ある、
人間の原型としてのたましいではないかと
思うのです。
アンデルセンが生きていた当時はまだまだ
身分制度が支配し
封建制の強い社会でしたから
人間に対する平等や公平な意識より
階級的な差別のまかり通るなかで
人間はたましいにおいて
すべて平等だと伝えたかったかも
しれませんし、
純粋に穢れがない魂こそ
階級や差別を超越して
人間の中にあると
アンデルセンは
伝えたかったかもしれませんが。
しかし
魂と言ってしまうことは
あまりに安直で
安易で
一般的に均されてしまいます。
きっともっと掘り下げられたものを
彼は書こうとしたのではないかと
それを探したいと
私は
思いました。
もう少し物語りを
見ていきましょう。
錫の兵隊の兵隊より1年前に
「白鳥の王子たち」は書かれました。
白鳥の王子のエリーゼは
散々に貶められますが、しかし
その貶めに一切屈することなく
エリーゼの中の一途な希望は
一心に力強く
遂げられてゆきます。
それは
人魚姫のように、命と引き換えるという
代償を払わなければならないものでは
なく
兄たちを救うために懸命にがんばった
エリーゼの中にある
生きることの命の原型、原動力としての
信念をもった希望という
たましいです。
しかもそれは神様ではなく
妖精モガーナに支えられて
います。
そして
そこから5年後に
みにくいアヒルの子が書かれます。
私があえて分析しなかった
”みにくいアヒルの子”も最後に
「こんなに幸せになれるとは
思ってもみなかったよ。だってぼくは
生まれたときは、みにくいアヒルの子
だったんだから」
とくくっています。
これは成功したアンデルセン自身の
回想でもあるんでしょうが
なにかアンデルセンのなかに
確信されたものがあり
更にもう
登場人物達が背負っていた
容姿の端麗さや、
逆の醜さが物語りの重要な要素から
はずれていきます。
ゲルダに至っては
可愛い女の子なんて形容は
全くありません。
逆に美しい花たちのことばは
空疎で魅力が
ありません。
つまりこの世の姿など
どうあろうと
関係ないんですね。
そして
みにくいアヒルの子を書き終えて
2年後に
雪の女王が誕生します。
その7年のなかで
明らかにアンデルセンは変容を遂げて行ったと
思います。
みにくいアヒルの子を書いたころには
アンデルセンのなかには、
身分や容姿や差別の条件を超越してある
人間の
根源的な何かを掴んでおり、
そこからさらに発展した
雪の女王のなかでは、
すべての登場人物達を
無条件に生かし、そして
様々に登場するそれらは
それぞれの個性が
みんな一筋の希望の光のなかで
照らされています。
しかしだからといって
口当たりのよい
安直な
物語ではけっしてありませんよ。
雪の女王になると
もう姿かたちなど外的な要素はすっとんで
登場してくる者たち
特に女性の中身というか
最もその人間のこころの原型を取りだし
それがゲルダを助けていきます。
知性の高い王女も
かしこいカラスも
悪たれの山賊の娘も
トナカイも
ラップランドの女の人も
フィンマルクの女の人も
そして
雪の女王も
悪魔でさえも
ひとつの心の原型として
具象化されて
取り出されています。
アンデルセンが一番言いたかったのは
この心の原型とその奥に秘めらている
原初のこころの中にあるものこそが
人間の本質で
マッチ売りの少女の場合は
物語の筋や展開さえもそぎ落とされ
少女のなかにあった
祖母の面影のみ、
つまり
心だけが取り出されています。
それはいったいなになのでしょうか。
私に見えていたもの、
物語の奥に透けて見える
うっすらと語られていた
ある世界。
そしてその世界へと
いざなうものが
人魚姫のときには”空気の精”として
未分化ながら姿を現し
錫の兵隊の時は彼をさっと
救いの風を起こし、バレリーナを
寄り添わせた”空気の精”であり
更にさらにエリーゼのなかでは
幻想の空殿に住むモガーナとなり
それは
沈黙の先にある希望を暗示します。
そしてみにくいアヒルの子では
いよいよ確信を与えられ
雪の女王の時にやっと
人間の行為として
あらわれてきます。
物語の中で
激しい危機が起きるときに
祈られる
”祈り”です。
「主の祈り」
「夕べの祈り」
幼子の聖句
そしてカイとゲルダが歌う
讃美歌の詩として
人間のすべてに与えられている
希望へと繋がってゆく道。
雪の女王の場合は
キリスト教の祈りに投影された”祈り”のことばが
出てきましたが
マッチ売りの少女には
アンデルセンはもはや
祈りだけを
抽出しているように
思います。
少女を掬うことができるのは、
少女が思う魂への
祈りだけ・・・・。
それはもうお分かりだと思いますが
”祈りの世界”です。
正確には
”祈りによって顕れる世界”です。
おことわりしておきますが、
あゝー祈りかあーと
分かったつもりにならないでくださいね。
それはとっても
重要なことなんですよ。
祈りによってのみ
私たちが手に入れることができる世界です。
或いは
祈りのみが到達できる
この世のでの
魂の瞬間・・・・とでも
いいましょうかねえー!
難しいなあー!
勿論アンデルセンはキリスト教徒でしょうから
キリスト教の祈りでもあるでしょう。しかし
なぜアンデルセンは救いを「神様」とせず
「空気の精」としたり
エリーゼを貶めるの役を
大司教にあてたのでしょうか・・・?
もしかしたら19世紀初めのキリスト教そのものが
”祈り”の世界から堕落し権威を振りかざす
権力そのものだったかもしれず、
それに対してのアンデルセンの反発が
あったのかもしれません。
ただね
教会権力と祈りは
全く
別の物だと
私は思います。
祈りは宗教ではありません。
すべての人間が使う事の出来る
魔法の杖・・・・ですよ。
そもそもイエスの教えは
そういう権威や権力に抗して
自分本来の本質的なこころにもどって
祈れ、
ただ神とだけ向き合えと
いうものであったと思います。
ただ彼の死後
当時のキリスト教徒が迫害されたことも
原因だと思いますが
それが信徒の集団化と
力の場としての教会へと
変貌していきました。
それをしたのが
パウロだか
コンスタンティヌスだか
私はわかりませんが・・・。
本来の祈りとは
自分の脆弱さをこえた
つまり
その人間のちっぽけな存在を超えた
大いなるものへと
願いを託するものであります。
おそらくその人は気づいていないでしょうが、
一心に祈るこころには
もはや
自分のちっぽけなこだわり世界が
捨てられています。
祈りの息遣いには、
魂だけになった自分があります。
純粋の祈りであればあるほど
その人間の自我の縛りがとけ
ただ透明に純化された
原初のこころがのみが
そこに在るでしょう。
ただし強欲な祈りは
違いますよ・・・笑!
そして祈りは
人間が魂そのものになるための
導きの通路です。
いつ、どこで
祈ろうとも
それは
誰もが
自分をとりもどし
自由を取戻す
瞬間です。
自分そのものに帰る瞬間です。
ただただ透明なたましいのみに
人間が帰る。
その一点にこそ
人間が
いる・・・・と
アンデルセンは潜在的に
確信していた・・・・・んじゃないかと
思います。
だから大スペクタルな雪の女王の世界を
書き終えたあとには
魂のみが人間だよ・・・ということ
すべてをそぎ落とした
或いは
始めからこの世的な俗せい(豊かさ)など
なにも身に着けていない
マッチ売りの少女を
登場させた。
そこには
祈りと魂の昇天しかない。
少女がマッチをともしてみる
美しく飾られたクリスマスの豪華な部屋も
七面鳥のごちそうよりも
天国から彼女を迎えに来てくれた
おばあちゃんと一緒にみた
煌めく夜空のほうが何倍も美しく
それを見ようと
おばあちゃんと一緒に
魂の空へと飛んでいった。
アンデルセン自身も気づいていなかったかも
知れませんが、
彼が無意識に帰結してゆくところには
ただたましいだけになった
浄化された人間のすがたが
あります。
雪の女王の物語は
高い空の上から
つまり高次の世界から
人間を見ている。
ゲルダを取り巻く人々すべてに
視線が注がれ
彼らの行く手に或る物(それ)を
じーっとみている
アンデルセンがいる。
美しくうまれようとも
醜く生まれようとも
人間の差別の真っただ中に
放りこまれようとも
人間の奥深くには”それ”がある。
子どものように純真で
自分のまんまを生きようとする
自分自身への信頼とが
損われていない世界です。
その祈り(幼子)の成就する世界へと向かって
いきてごらんなさい!
そして
祈りの奥にあるのは
希望です。
希望とは
まさに
自分の中に変容がおきることです。
原初の心の魂に
この世で生き抜きながら
手に入れてきたすべての事が
統合され
祈りによって浄化されていく。
そのプロセスが
アンデルセンの人生であり
その童話に昇華されていったのではないかと
私は思います
この世には
清も悪も光も闇もあるけれど
その中を勇気をだして
一途に生きてごらんなさい!
そこを通り抜けて行ったときにはじめて
春のおだやかな光のなかで
花が咲きほこり花と青葉の美しい景色が
みえてきます。
教会の鐘の音が聞こえてきて
行く手には自分の家が
住むべき家が
もうすぐみえてくるよ
懐かしいその家が・・・と
ね。

『伝心柱マガジン』もやってます。
よかったらどうぞ1
● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
でも記入はご自由にどうぞ!
アンデルセンの心の深層に
あったのではないかと思われる
心理で
アンデルセン自身も
気づいていないものかも
しれません。
カウンセリングをしていると
その人の表面的な姿かたちではなく
そのひとの体の奥の方に
その人の話す言葉の表面的な意味の
更にさらに深いところにある
そのひとの最も”原初的こころ”が
ぼんやりと見えてきます。
それはどの人のものも
美しく、幼子のこころのように
透明で素直でそして
いかにもほんのすこしの振動で
壊れそうな心です。
しかしその原初の心は
大人になるにつれ
分厚い皮をかぶり
つるつるとした仮面になり
そして、小利口な知恵がついたあたまは
どんどん自分を擬装して
取り繕う言葉を吐き出します。
ついには
その本人でさえ
自分のなかに
やわらかくて美しい原初のこころがあるなど
忘れ去ってしまいます。
原初的な心
もしかしたら、
魂と呼んでもいいのかもしれない
その心を
どうしたら
その人が気づき
取り戻せるか・・・・と
私は渾身をこめて向き会うのですが
なかなか分厚い壁は突破できません。
でも
少しでもその兆しを求めて
針の穴ほどでも開けられれば
いずれは気がつく日も
くるかもしれないと
希求して頑張るのですが。
でもそれには
機が熟してくるまでの
たくさんの挫折が必要ですねー。
さてそれではマッチ売りの少女。
今回このお話を読んで
ずいぶん長いあいだ
私はこの物語を読み違えていたことに
気づきました。
この物語は貧しさの中で
マッチを売る
かわいそうな少女の物語では
決してありません。
そうではなく寒さの中で凍え死んだ
少女のことをアンデルセンは
祝福するかのごとく
最後を締めくくっています。
つぎの日の寒い朝、
街角にうずくまっている少女の姿がありました。
ほおは真っ赤で、くちびるにはほほ笑みが浮かんでいます。
去年のさいごの夜、こごえ死んでしまったのです。
あたらしい年の朝日が、ちいさな体にあたっています。
ひざの上には、マッチが束ごと燃え尽きていました。
「体をあたためようとしたんだな」人々はいいました。
だれひとり、知りません。
少女がどれほど美しい光景を見たか、
どれほどのきらめきのなかを、おばあちゃんといっしょに
空をとんでいったか。
自分だけのあたらしい年にむかって。
驚いたことに少女には
喜びがあるのです。
マッチ売りの少女には
アンデルセンの母親が
子どもの頃に寒い中を物乞いにだされ、
お金をかせげなければ家に帰れなかったたことが
モデルとしてあるのかもしれないとか、
この物語は
貧民層の出身であるアンデルセンの
貧しいものに対する慈しみではないかとも
言われています。
もしかしたらそうかもしれませんね、
しかし私はもっとその奥を
覗いてみたい。
この物語は「雪の女王」からさらに4年後に
書かれています。
「雪の女王」でははじめて聖書の世界の事が
書かれ、
天国にはいるには
幼子のようなこころでないと
門をくぐれないよ・・・と書いていますし、
おさなごのように純真でないと
ほんとうのことは見えないし
いちばんたいせつなものへと
突き進む勇気も
もてないよと
書いている・・・ように
私には思えます。
きっとなにかがあって
アンデルセンは自分の深いところに
息づいている
チャイルドの
重要性に気づいたんだなーとも
思います。
しかしこのマッチ売りの少女の場合は
その勇気も希望もすべて取り除かれ
マッチ以外にはなんにもなく
ただただマッチを燃やす
その一瞬に暖をとり
自分を愛してくれたおばあちゃんが
迎えにきてくれるということしか
ありません。
さらにそのおばあちゃんに誘われて
彼女は死によって、
生きることよりも美しい光景を
手にいれています。
はて、アンデルセンはなにを
伝えたかったのでしょうか、私たちに・・・。
難しいですねえー!
いちばん簡単なのは
貧しい少女への悲しみの共感を
とることです・・・・・が。
しかし
私は読んだ瞬間に
なにか癒されました。
今までは物語の筋のほうに
意識をとられていましたが
今回は
”言葉”を読んだような
気がしたのです。
筋立ては悲愴ですが
言葉はむしろ
喜びで結ばれている。
そして書かれていることは
どんなに貧しくとも
また寒さで凍え死ぬ瞬間に
女の子は微笑んでいる・・・としたら
そこには
死をも超えるなにかを
アンデルセンは
見ている。
死をも超える何かとか
もしかしたら
”生”をも超えるなにか
つまり、
生と死を超越するものを
暗示したかったんじゃないかと
私は思います。
実はたぶん、そうじゃないかなあーということを
人魚姫や錫の兵隊の物語に
ぼんやりと見つけていたものがあります。
それは自分の魚の醜い尾を捨てて
人間の足を獲得した人魚姫の人間化が
見事に失敗をしてしまったこと。
逆に錫の兵隊は、
片足という不完全な姿であるばかりに
粗末に扱われ
ドブネズミにまで
おまえは存在する資格があるのかと問われ
最後は炎の中にほうりこまれてしまうにも
かかわらず、
姿がとけて
もとの錫の塊にもどったそれが
ハートの形であったこと。
それは片足どころか
なにひとつ損われていない
完成された形です。
それは多分不幸な境遇や
生まれながらにしての差別のなかでも
どんなにんげんにも
普遍的に与えられているものが
あり、
それは姿かたちや身分や貧富を超えて
ある、
人間の原型としてのたましいではないかと
思うのです。
アンデルセンが生きていた当時はまだまだ
身分制度が支配し
封建制の強い社会でしたから
人間に対する平等や公平な意識より
階級的な差別のまかり通るなかで
人間はたましいにおいて
すべて平等だと伝えたかったかも
しれませんし、
純粋に穢れがない魂こそ
階級や差別を超越して
人間の中にあると
アンデルセンは
伝えたかったかもしれませんが。
しかし
魂と言ってしまうことは
あまりに安直で
安易で
一般的に均されてしまいます。
きっともっと掘り下げられたものを
彼は書こうとしたのではないかと
それを探したいと
私は
思いました。
もう少し物語りを
見ていきましょう。
錫の兵隊の兵隊より1年前に
「白鳥の王子たち」は書かれました。
白鳥の王子のエリーゼは
散々に貶められますが、しかし
その貶めに一切屈することなく
エリーゼの中の一途な希望は
一心に力強く
遂げられてゆきます。
それは
人魚姫のように、命と引き換えるという
代償を払わなければならないものでは
なく
兄たちを救うために懸命にがんばった
エリーゼの中にある
生きることの命の原型、原動力としての
信念をもった希望という
たましいです。
しかもそれは神様ではなく
妖精モガーナに支えられて
います。
そして
そこから5年後に
みにくいアヒルの子が書かれます。
私があえて分析しなかった
”みにくいアヒルの子”も最後に
「こんなに幸せになれるとは
思ってもみなかったよ。だってぼくは
生まれたときは、みにくいアヒルの子
だったんだから」
とくくっています。
これは成功したアンデルセン自身の
回想でもあるんでしょうが
なにかアンデルセンのなかに
確信されたものがあり
更にもう
登場人物達が背負っていた
容姿の端麗さや、
逆の醜さが物語りの重要な要素から
はずれていきます。
ゲルダに至っては
可愛い女の子なんて形容は
全くありません。
逆に美しい花たちのことばは
空疎で魅力が
ありません。
つまりこの世の姿など
どうあろうと
関係ないんですね。
そして
みにくいアヒルの子を書き終えて
2年後に
雪の女王が誕生します。
その7年のなかで
明らかにアンデルセンは変容を遂げて行ったと
思います。
みにくいアヒルの子を書いたころには
アンデルセンのなかには、
身分や容姿や差別の条件を超越してある
人間の
根源的な何かを掴んでおり、
そこからさらに発展した
雪の女王のなかでは、
すべての登場人物達を
無条件に生かし、そして
様々に登場するそれらは
それぞれの個性が
みんな一筋の希望の光のなかで
照らされています。
しかしだからといって
口当たりのよい
安直な
物語ではけっしてありませんよ。
雪の女王になると
もう姿かたちなど外的な要素はすっとんで
登場してくる者たち
特に女性の中身というか
最もその人間のこころの原型を取りだし
それがゲルダを助けていきます。
知性の高い王女も
かしこいカラスも
悪たれの山賊の娘も
トナカイも
ラップランドの女の人も
フィンマルクの女の人も
そして
雪の女王も
悪魔でさえも
ひとつの心の原型として
具象化されて
取り出されています。
アンデルセンが一番言いたかったのは
この心の原型とその奥に秘めらている
原初のこころの中にあるものこそが
人間の本質で
マッチ売りの少女の場合は
物語の筋や展開さえもそぎ落とされ
少女のなかにあった
祖母の面影のみ、
つまり
心だけが取り出されています。
それはいったいなになのでしょうか。
私に見えていたもの、
物語の奥に透けて見える
うっすらと語られていた
ある世界。
そしてその世界へと
いざなうものが
人魚姫のときには”空気の精”として
未分化ながら姿を現し
錫の兵隊の時は彼をさっと
救いの風を起こし、バレリーナを
寄り添わせた”空気の精”であり
更にさらにエリーゼのなかでは
幻想の空殿に住むモガーナとなり
それは
沈黙の先にある希望を暗示します。
そしてみにくいアヒルの子では
いよいよ確信を与えられ
雪の女王の時にやっと
人間の行為として
あらわれてきます。
物語の中で
激しい危機が起きるときに
祈られる
”祈り”です。
「主の祈り」
「夕べの祈り」
幼子の聖句
そしてカイとゲルダが歌う
讃美歌の詩として
人間のすべてに与えられている
希望へと繋がってゆく道。
雪の女王の場合は
キリスト教の祈りに投影された”祈り”のことばが
出てきましたが
マッチ売りの少女には
アンデルセンはもはや
祈りだけを
抽出しているように
思います。
少女を掬うことができるのは、
少女が思う魂への
祈りだけ・・・・。
それはもうお分かりだと思いますが
”祈りの世界”です。
正確には
”祈りによって顕れる世界”です。
おことわりしておきますが、
あゝー祈りかあーと
分かったつもりにならないでくださいね。
それはとっても
重要なことなんですよ。
祈りによってのみ
私たちが手に入れることができる世界です。
或いは
祈りのみが到達できる
この世のでの
魂の瞬間・・・・とでも
いいましょうかねえー!
難しいなあー!
勿論アンデルセンはキリスト教徒でしょうから
キリスト教の祈りでもあるでしょう。しかし
なぜアンデルセンは救いを「神様」とせず
「空気の精」としたり
エリーゼを貶めるの役を
大司教にあてたのでしょうか・・・?
もしかしたら19世紀初めのキリスト教そのものが
”祈り”の世界から堕落し権威を振りかざす
権力そのものだったかもしれず、
それに対してのアンデルセンの反発が
あったのかもしれません。
ただね
教会権力と祈りは
全く
別の物だと
私は思います。
祈りは宗教ではありません。
すべての人間が使う事の出来る
魔法の杖・・・・ですよ。
そもそもイエスの教えは
そういう権威や権力に抗して
自分本来の本質的なこころにもどって
祈れ、
ただ神とだけ向き合えと
いうものであったと思います。
ただ彼の死後
当時のキリスト教徒が迫害されたことも
原因だと思いますが
それが信徒の集団化と
力の場としての教会へと
変貌していきました。
それをしたのが
パウロだか
コンスタンティヌスだか
私はわかりませんが・・・。
本来の祈りとは
自分の脆弱さをこえた
つまり
その人間のちっぽけな存在を超えた
大いなるものへと
願いを託するものであります。
おそらくその人は気づいていないでしょうが、
一心に祈るこころには
もはや
自分のちっぽけなこだわり世界が
捨てられています。
祈りの息遣いには、
魂だけになった自分があります。
純粋の祈りであればあるほど
その人間の自我の縛りがとけ
ただ透明に純化された
原初のこころがのみが
そこに在るでしょう。
ただし強欲な祈りは
違いますよ・・・笑!
そして祈りは
人間が魂そのものになるための
導きの通路です。
いつ、どこで
祈ろうとも
それは
誰もが
自分をとりもどし
自由を取戻す
瞬間です。
自分そのものに帰る瞬間です。
ただただ透明なたましいのみに
人間が帰る。
その一点にこそ
人間が
いる・・・・と
アンデルセンは潜在的に
確信していた・・・・・んじゃないかと
思います。
だから大スペクタルな雪の女王の世界を
書き終えたあとには
魂のみが人間だよ・・・ということ
すべてをそぎ落とした
或いは
始めからこの世的な俗せい(豊かさ)など
なにも身に着けていない
マッチ売りの少女を
登場させた。
そこには
祈りと魂の昇天しかない。
少女がマッチをともしてみる
美しく飾られたクリスマスの豪華な部屋も
七面鳥のごちそうよりも
天国から彼女を迎えに来てくれた
おばあちゃんと一緒にみた
煌めく夜空のほうが何倍も美しく
それを見ようと
おばあちゃんと一緒に
魂の空へと飛んでいった。
アンデルセン自身も気づいていなかったかも
知れませんが、
彼が無意識に帰結してゆくところには
ただたましいだけになった
浄化された人間のすがたが
あります。
雪の女王の物語は
高い空の上から
つまり高次の世界から
人間を見ている。
ゲルダを取り巻く人々すべてに
視線が注がれ
彼らの行く手に或る物(それ)を
じーっとみている
アンデルセンがいる。
美しくうまれようとも
醜く生まれようとも
人間の差別の真っただ中に
放りこまれようとも
人間の奥深くには”それ”がある。
子どものように純真で
自分のまんまを生きようとする
自分自身への信頼とが
損われていない世界です。
その祈り(幼子)の成就する世界へと向かって
いきてごらんなさい!
そして
祈りの奥にあるのは
希望です。
希望とは
まさに
自分の中に変容がおきることです。
原初の心の魂に
この世で生き抜きながら
手に入れてきたすべての事が
統合され
祈りによって浄化されていく。
そのプロセスが
アンデルセンの人生であり
その童話に昇華されていったのではないかと
私は思います
この世には
清も悪も光も闇もあるけれど
その中を勇気をだして
一途に生きてごらんなさい!
そこを通り抜けて行ったときにはじめて
春のおだやかな光のなかで
花が咲きほこり花と青葉の美しい景色が
みえてきます。
教会の鐘の音が聞こえてきて
行く手には自分の家が
住むべき家が
もうすぐみえてくるよ
懐かしいその家が・・・と
ね。

よかったらどうぞ1
● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
でも記入はご自由にどうぞ!
by denshinbashira
| 2011-10-13 18:55
| アンデルセンの童話より
|
Comments(1)
大変感動しました。
大丈夫だよ ひとりでおいきなさい
そう私に伝心柱さんが言ってくれたように思えました。
いつもありがとうございます。
大丈夫だよ ひとりでおいきなさい
そう私に伝心柱さんが言ってくれたように思えました。
いつもありがとうございます。
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