祈りと創造性について! |
書いてみようと思います。
先日アンデルセンの童話より・・のシリーズの中で
アンデルセンが自分の中にある
”祈り”から得られる高次の世界
(おおいなる世界)に
気づいていたことを
書きました。
なかなか難しいことなので
上手くお伝えすることが
出来るかどうか・・・・でも
書いてみましょう。
つまり”祈り”により
自己を超える世界へ通じてゆくと
そこには自分の意識の限界、
すなわち
自分の意識内で操作する限界をこえた
高次の世界があり、
その位置から俯瞰出来たときこそ
全体が見えてくる。
その時見えてくる全体は
無意識の領域で把握される、
言葉にならない大きな、おおきな
茫洋とした世界です。
それは言葉や意識よりはるかに
大きい世界で
それを言葉や意識で把握しようとすると
つまり
明確化しようとすると
言葉にならない部分は
切り落とされ
意識で理解できない部分も
捨てられます。
つまり
言葉化による分断や
イメージ化より限定されて
縮小化されるからである。
時には矮小化されることも
ある。
なぜなら意識は
自分が理解できたとき
安定するから
理解できないものや
不明なものに対しては
排除しようとするからです。
自分の意識の理解を超えたもの
或いはなんとなく
脳のセンサーにひつかかったものは
みんな無意識領域に
集まられていきます。
それらは
無意識の中の海の中に浮びながら
茫洋とした原型の
カオス状態でいられる。
生まれる以前の意識とでも
いいましょうかねえー!
そして
無意識的に獲得されたものは
無意識領域という
大きな海にほうりこまれ
漠然とした認識のまま
そのまま無意識の中で
浮遊しながら
少しずつ少しずつ
整理され、時に醗酵しながら
成長し
或いは統合されながら
形を整えてゆく。
そしてすべてのおぜん立てが整い
それが必要となったとき
機が熟したとき
意識レベルで
”ひらめく!”
或いは思い出すことに
OK,または
GOサインがだされる。
つまり
”ひらめいた”時には
もう
かなりの道のりや手段や
手順が整っている。
だから
ひらめきには
なんとなくであるが
確信が付着しているのである。
そのひらめきのところにある
糸を手繰っていくと
そろそろと形があらわれてくる。
しかしあくまでも
無心で手繰れば・・・の話ですよ!
動機に垢や汚れがこびりつくと
横道にそれていくからね・・・。
この無意識の領域への方法として
”祈り”は有効であり
”祈り”によって
自分の手に置いては限界となったものを
大いなるものへ(無意識)へと
放り投げる。
その時”祈り”は
ただひたすらな祈りでなければ
ならない。
”祈り”りに自我の欲や
利害や自分の勝手な願いを付着させたとたんに
それは自我のなかでの狭い
”関係”という枠にはまってしまう。
そうではなく
自分を捨てて
祈る。
無になるんです。
なんでもかんでも、
自分の手でやろうとすると
それはもうちいさな自分の範疇の可能性しか
産まない。
そうではなく
自分が持っている広大なる無意識の世界へと
預けてしまうこと。
そこには欲はなく
ただ純粋の祈り
成就しますようにという
祈りしかない。
その透明さがあって
はじめて
無意識のなかでの作用がスムーズに
流れる。
このことを知っている人々は
最初の書き出しを
思いついたらあとは
天から降ってくるように
言葉が浮かび
ものごとのモチーフや展開が
ひらめき
はこばれてゆく。
いわゆる
神様が下りてきた瞬間というヤツですね。
すごいねえー!
自分を捨てて無になったときこそ
じつはそこからはじめて
クリエイティビティ―が
うまれてくる。
アンデルセンはそのことを
知っていたのかも
しれませんね。
たぶん
なんとなく
知っていたと思います。
上手く書けたかなー?


『伝心柱マガジン』もやってます。
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● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
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