シャドウと出遭う! |
シャドウと出遭うということについて
書いてみます。
9月21日のブログ「大いなるシャドウ」でも
書きましたが、
私たちは対外的な世界
(世間さま)へ向けた顔(意識、こころ)と
それに比例して
それとは反対の自分の本心(シャドウ)を
同量にもっています。
つまり
自分が闇に葬ってしまった感情や意識を
無意識のところに持っています。
シャドウとは言ってみれば
自分から承認されていない
もうひとりの自分と言えます。
どちらかというと
シャドウの持つ暗い攻撃的な自分は
市民社会や世間で
おとなしく適応している自分には
厄介な存在で、
だからこそ
闇に葬り
見ないふりをしてきたのです。
しかしシャドウはシャドウで
どうしても自分を認知させたく
隙あらば、その人間の表面に
浮かび出てきて
自分の存在を知らしめよいうとします。
自分の中の他者への否定的感情や
嫉妬や批判など
どうしても浮かんでくる感情で
自分の胸に忍ばせた
短刀みたいなものですね。
そしてついに押し殺されてしまったシャドウは
強烈な”被害者”意識で
その人間の感情を乗っ取って
その人間だけにしか理解でないような
自己弁護や
自己正当化をもって
行動への衝動を引導していくか
(あの秋葉原の事件などのように・・・。)
或いは
押し殺したエネルギーを
真っ黒に固形化させ
あまりに苦しいために
自分の感情をどんどん鈍くさせ
ついには
黒と白という色のない世界へと
感情を埋め込んで
反応を
封鎖してしまいます。
ここまで書くと
なんてシャドウは
恐ろしいんだろう・・・と
思うでしょ!
いいえ
そうじゃーないんですよ!
シャドウの本質は
嘆きと
悲しみなんですよ。
だからあんまり苦しいと
かなしみも
嘆きも感じないように
感情を封印してしまうんですね。
それに
人間は誰でも
みーんな
シャドウを持っているんです。
自分だけじゃないんですよ!
もし自分の中にシャドウがいるって
感じたら、
まず
シャドウのいう事を
口に出して言う。
それが聞くに堪えない
罵詈雑言でも
おそろしい怒りの感情でも
まず
口からはきだして
ごらんなさい。
スーッとするでしょ。
ノートに書きだしても
いいですよ
ただし
吐きだしっぱなし
書きっパなしにして
決してそれを言い訳したり
訂正したりしないこと。
それはせっかくのシャドウの言葉を
カムフラージュする
卑怯な行為です。
お笑い芸人の有吉君が
毒舌を吐いて
それでスーッとする人も
いるかもしれませんが、
でもそれでは
ダメなんです。
自分がリスクを引き受けないで
他人に代理をしてもらっているから
です。
そうじゃなく
自分のことばで
吐くんです。
毒舌を吐くのは
楽しいですよ。
世の中の多くの人は勘違いしてますが、
毒舌を平気で吐くような人間にこそ
人はあまり
つけこみませんから
それは人間として強くなります。
ビートタケシだって
最初は毒舌漫才だったでしょうに。
ちょっと話がそれてきましたね。
そして
自分の中のシャドウの部分
自分の闇の中を
よーく覗いて
例えそこが見るに堪えないくらい
汚れていても
怒りや呪いだらけだったとしても
そうだったのか・・・と
その闇をうけいれて
あげることです。
いうなれば闇の中に葬った言葉は
自分の
たいせつな、大切な本心で
闇にほうむれたからこそ
今まで生きてこれたんです。
つまり
命がその人間を生かすために
前半の人生の中で
禁じられていた言葉
禁じられていた感情を
闇(シャドウ)が受けとめてくれていたんですね。
しかしそこに在るのは
まぎれもない自分の感情と意識ですから
それは抹殺してはいけない。
先ほども書きましたが
闇(シャドウ)の本質は
嘆きと
悲しみです。
攻撃的で
否定的な自分のシャドウの感情の奥に
自分の深い悲しみや
慟哭を
ちゃーんとみてあげることです。
そして
抱きしめて
抱きしめて
愛おしく思ってあげてください。
シャドウとの出遭いは
その人の大きな転機となります。
今までは
自分の心のそこに在って
否定的で
攻撃的な感情と意識でしたが
シャドウがその人が出遭い
受け入れたとき
今度は
人間の
本質や
人間の現実
社会の実相を
その人に教えてくれます。
きれいごとの人間や
社会では
なくて
その人がリアルに感じていた
人間の深層の心理や
仮面の裏にある
人間の実相です。
凄いでしょ!
そして
それまでのいい子ちゃんの目には
人間が平板に見えていたのに
シャドウの目をもって見ると
さまざまに擬装し
粉飾した人間の本質がみえて、
多種多様な人間の生きざまが
見えてきます。
世界は色彩に満ちているし
ひとりひとりが
物語を生きていて
人間は複雑で面白い!
アート的にいうなら
たくさんの人間のモチーフが
自分の中にも
他人の中にも存在し
魑魅魍魎が暗躍しています。
それがこの世です。
シャドウが内面の中で抑圧されているかぎり
それらの恐ろしい魑魅魍魎に
脅かされてしまいますが
外に出し
光をあててしまうと
愉快なオバケどもです。
つまりね
それはシャドウに出遭う前は
自分を脅かす悪魔たちかもしれませんが、
シャドウに出遭い認知した途端
その悪魔たちは
才能や
知恵に
なっていくんですね。
シャドウは才能でもあり
知恵でもあるんですよ。
シャドウに出遭わない前は
それらの悪魔の感情は
その人間の内部で倒錯した感情として
閉じられた内面の中をグルグル
廻るだけですが、
シャドウを取り出すと
そこに客体化されたシャドウから
客観的な情報をもらえるように
なります。
心のなかにほおっておくと
疑心暗鬼の鬼になるのが
外に取り出し
光の中にあてると
客観情報になるんですね。
シャドウはシャドウに反応しますから
シャドウをたくさん持っているどうしは
犬猿しあいます・・・・笑!
つまりお互いを疑いあうのですね・・・・おもろいね!
私は今までたくさんの人が
自分のシャドウと出遭う瞬間を
見てきました。
そして
いつもそれは感動的でした。
自分を生かすということは
光も
闇も
両方の世界を
持って
自分が
立体的に生きることだと
思います。
出遭えると
いいね!


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● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
でも記入はご自由にどうぞ!