シリーズ「残念なひとびと」・わかってないのに、わかったつもりになっている人々 |
書きたいことがたくさんあって
どれから書こうかしら・・?
「残念なひとびと」というのは
才能や能力を持ち合わせていながら
それを開花、発揮できず、
埋没してしまう人々ですが
私はこれらの人々の事を
「わかっていないのに
わかったつもりになっている人々」とも
呼びます。
何がわかっていないかというと、
いくら才能や能力があっても
この世の中で
それを開花させ発揮していくには
もう”一つの能力”が
必要でだということ
そして
この世の中は
自分以外に才能や能力がある人間が
ゴマンといること、
また才能や能力だけではどうにもならないほど
世の中は甘くない、
厳しいのだという事を
分かっていないのです。
才能とか能力というのは
いわば、原材料というか素材みたいなもので、
それをどのように加工し、
販売ルートに乗せ
更に買ってもらうとか
認めてもらうために
どうするか・・・という戦略(もう一つの能力)
が必要で
その戦略を考え
段取り
実践していく…という事が
いかに大変で
厳しいことか・・・を
わかっていないのに
分かったつもりになっている。
つまり自分が
方法(戦略)を持っていない・・・ということを
分かっていないのです。
打ち上げ花火のように
アイディアが浮かんでも
自分の素晴らしい能力を
どんなに自覚していても
それを自分の頭から取り出して
他者にも理解できるように
明確な形や言語化して見せ
実現し
成果や結果や数字にしていくことが
どれほど困難であるかを
分かっていないのですね。
才能や能力というのは
人生の前半に、
その人間個人の中で
育てられ磨かれていく
極めて個人的な世界の産物です。
才能や能力があっても
それを大きな広い世界で生かすために
何が必要で
どうしたらいいかの方法を
獲得するためには、
たくさんの事を経験し
情報を集め
分析し
実践した経験値を付加しながら
それでやっと
少し目先が見えてきたくらいで
世の中のことを
理解するには
最低10年の下積みが必要だと
思います。
最低10年は、
自分は何も知らない・・・という自覚のもとに
何でもやってみる勇気
他者の意見を聞く素直さ
自分の欠落に教えを乞う
率直さ、などなど
そして
あちこちに
頭をぶつけながら
失敗や挫折の中から
自分にとって一番有効な方法を
見つけだし
マーケット情報を
掴みながらなお
自分の周囲に必要な人々を
配置してゆく
そういう時間がです。
そうしながら
自分の世界実現のために
着々と手をうちながら
階段を
一段ずつ上って行く。
こういうことを事をやっていかないと
才能と能力だけでは
ねえー・・・?
どうにもならない
という事を
わかっていないひとびとは
才能がある自分を過信し
能力がある自分だけに依拠し
それさえあれば何とかなりそう・・・な気分で
それだけを後生大事に信じて
そこから挑まなければならない
大きな広い人間の社会、
未知なる冒険と闘いの世界への旅立ちを
回避しようとするのです。
なぜ
そうなってしまうのか・・・・・?
さてここからが今日の本題!
どうしてそうなってしまうのか・・・?
才能や能力のある人
全部がそうだとは言いませんが
少なくとも子供や学生の頃
優秀と言われたり
才能があるといわれた人々の
大概が
親から
期待されたり
逆に疎外されたりしたことが
原因になったり
或いは親の優劣コンプレックスを
バトンされたり・・・という
なんらかの理由で
親からの委託を受けている場合、
或いは
親に愛されようとする代償として
そうなった場合
彼らは子供時代に
優秀であるために
天才であるために
他の凡庸な子供より何倍も
そうなる
努力をしたと思います
言っておきますけど
生まれつきの秀才天才など
いませんからね。
しかしそういう親に限って
その才能や能力を
いかに社会で開花させるかを
子どもに教えない。
いや
教えられないのです。
なぜなら
親が自身が成功体験もないから
いとも簡単に成功できるような安易さが
あり
それを子供に委託するのであり
逆に親自身が
成功体験があり
才能や能力を社会で
人生で開花させることが
いかに厳しく険しい道であるかをを
知っていたら
いるほど
こども時代に優秀であるとか
才能があるとかなどの
矮小なスケールで
子どもをはからない。
子どもの世界が偏るこ事よりも
子どもの生命力を信頼して
いろんな体験や経験を積むように
子どもを解放するでしょうね。
つまり
能力を”特化”させるような
教育をしないでしょう。
子どもの能力とは
いわばベース教育で
それは
なるべくたくさん遊び
いろんな経験し
たくさんの友達(人間)と出遭い
感情を交換しながら
人間のデーターを
無意識層に集める事こそが
重要なのです。
そして純粋な体験や出会いの中で
ふれあいながら
自分や他者の尊厳をも獲得してきます。
つまり優秀な親なら
子どもの能力を
”勉強のできる・・という”ことに
特化にしないことを
考えるからです。
それは子供達が世の中に出たとき
”勉強しかできない子”
”ある才能しか持っていない子”では
つぶしがきかないことを
親が熟知しているからです。
子どもがさまざまな未知に遭遇し
自分の体験の中で
それらを受け入れ
或いは解決してゆくたびに
子どもの脳のネットワークは広がってゆきます。
つまり受け皿の器が
造られてゆくのですね。
ベースの器が大きいほど
そこには様々なデータがあつまり
体験や経験の”臨場感”が積まれると同時に
それをもとに
脳のインパルスが縦横無尽に走り
分析や統合の能力が
育っていきます。
特化した能力は残念ながら
前半の人生では
優位に立てるかもしれませんが
後半の人生においては
それだけでは
どうにもなりませんし
もうひとつ
とても大切なことが
あります。
それは
その人間(子供)にとって深刻な
大きな障害といってもいいほどの
心理的な”オバケ”を
産みだします。
それは
親の期待
親の焦がれ
親の理想・・・を親から委託された子供は
親の期待を担うために
常に背伸をしては
◎ 自分の等身大でいきてこれなかった子供
になってしまうからです。
※悲しいことに
自分の等身大でいきてこれなかった子供は
自分の等身大でいきれない大人に
なります。
この人たちは自分のそのことに
気づかない限り
いずれ大きな現実の海で
挫折し苦しみます。
自分の等身大で生きていない子供は
自分の欲求に従って
自分の内実を埋めながら成長することが
出来ません。
親のイメージにあう子供になろうとし
常に
膨張した自分
肥大化させた
架空の自分をいきようとします。
いや
生きてしまいますから
自分のなかは
肥大化した自分と
等身大の自分との落差があり
空中に浮遊しているよう自分が
そこにいます。
つまり
足が地についていない自分です。
自分の中はがらんどうで
自我の欲求の充足や
感情の放出ができない
つまり自分を感じることが
できない
自分の実感にもとづいていない
あたまデッカチの
◎空疎で自信がない自分を生きるのです。
※ これはものすごく深刻な
その人間の深層心理を造ってしまいます。
自信がない自分は
特化した才能や
特化した能力が
認められた時だけ
ほっと自分が安心する。
しかし
なにかの拍子で
自分の中の真実(ほんとうは、がらんどうで
自信のないことや
不安でたまらないことが)
バレそうになると
すぐ傷つき
すぐ萎れ
常にエレベーターのように
優越感と失意の間を
行ったりきたりして
生きている。
そういう彼らは
親から独立して
戦場のような現実の社会へと
打って出る勇気もなく
ゼロから出発ではない
すでに在るもの、
御膳だてされた場所から
出発しようとします。
そして
何かの拍子で
自分がすぐ折れてしまう事を
無意識領域では知っているため
なにかわかったふりや
つもりなって
常に自分を
心理擬装します。
そして、
アタマがいい分
自我意識のプライド、勝気だけは
高く、しかし
自信のなさや
そこに飛び込んで闘う気力がないことを
見破られないないように
批判精神だけは誇りたかく、鋭く
しかし自分は
安全なところで
お茶を濁しながら
くすぶる。
つまり
イソップ童話のあの
”酸っぱい葡萄と狐”の
狐君になってしまうのです。
悲しいですね。
しかし
今の日本はこういう
「残念な若者」を
たくさん輩出してしまいました。
以前うちの父ちゃんが
某新聞のインタヴューで
「現代は就職氷河期でもなんでもない
企業はいい人材を欲しくて
手ぐすね引いて待っているのに
いい人材が見つからない・・・」
と言っているように
とても深刻な状況です。
さて
どうしたものか・・・・。
長くなりました。
明日は
では
どうしたらいいか・・・を
書きましょう。


よかったらどうぞ!
マガジンに参加してくれた新しい彼女の記事が
ありますよ!
● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
でも記入はご自由にどうぞ!

他者の評価に怯えながらも自己評価は高い
自分は自分だ、と思って生きてきましたが、どんどん他者評価と自己評価に
ギャップが出来てしまい、他者に評価される機会を避けるようになり
気がつけば消極的になっていました。
正直今何を信じていいのかよくわかりません。