シリーズ「残念なひとびと」・・・死にそうになりながらジャンプする! |
「もう生きたくないなー」と
からだに大きな疲れを感じたが、
しかし、これも
身体が身に着けてしまった”鬱”だと
分かっていますから、
ヤレヤレと気を取り直して
起きました。
私のこの現象は
身体に刷りこまれてしまった絶望といいますか、
子供の頃に
”天才少女”を期待される一方で
親の強烈なブレーキで
身動きできない
私自身の状態の”なごり”で
子供の頃はそれでも
エネルギーに満ち満ちていますから
その二重の”しばり”をなんとか
こなして生きれますが、
青年期から社会へとデビューし
様々な壁にぶつかって、
自分のほんとうの現実が顕れてきたときの
大きな”無力”感が
私自身の”生きること”まで
挫いてしまった・・・・・・その傷、
身体にのこってしまった
”無力感の傷”が
時々、朝の無防備な精神の中に
貌をだすのですね。
しかしこの傷も
私自身のあくなき解明の追及で・・・笑
正体をつきとめましたから
どうってこともないのです。
ただ”鬱”という体のホルモン分泌は
なかなか取れません。
身体はゆっくりとしか
変化できないのです。
最近、詩を書きたいなあーと
思うのですが、
なかなか言葉が浮かびません。
歳をとって
感情がかなり整理されているため
感傷的な言葉が
浮かばないのだろうとも思います。
それに
自己への執着があまりなくなっている。
感情が
サラサラと
自分のなかを素通りしていく感じです。
時々嫌だなーとひっかかることも
あるのですが
それも深追いせず、
ほおってしまいます。
逆にいいなあーと思うことは
素直に素直に人間の、相手の、そのひとの
”姿”が見えてきたときです。
昨日「伝心柱マガジン」に書きました
”寂しいリスト”の姿など
今までには見えなかったリストのもう一つの姿で
こころが素直に彼に寄り添いました。
自分の感情が薄くなったのかもしれないとも
思いますが、
感情のフィルターがとれてきたとも
思います。
感情のフィルターが強烈なほど
感傷的になってしまいますから、
またこの
”感傷的な感情”も
倒錯したエクスタシーでねー
エゴの問題でもありますヨ。
昨日も書きましたが、
私たちは自分の”脳”と
身体を使いながら生きてるのに
ともすると
”脳”と”身体”に
使われて
いいきてしまいます。
そこにどっぷりと
嵌まりこまないで
いつも
その二つを止揚する
高い水準の精神が必要だと
思います。
それにはよーく自分を
洞察してネ、
志高く
甘やかさないことです。
昨日もちょっと書きましたが、
私たちの神経システムは
複雑になって息詰まると
もう一つ複雑で水準の高いものへと
ジャンプしながら
生き延びてきました。
※そうして”いしき”や”心”が生まれてきたとも
言われています。
生き延びるため・・・という自明の命題は
常に”命”の中に組み込まれており
命は常に”希望”へ向かって
存在しています。
つまり死にそうになりながらも
決してあきらめない・・・という
そういうシステムに
私の”脳”も”からだ”も
なっているのです、
生きているあいだはネ。
瑞々しく生まれ
やがて枯れ木のように
死んでいくその
命のながれには
チャーんとそういうプログラムが
あるということで
だから私はより自分の自然性にそって
いきてりゃいいと
おもっています。
同様に今の時代については
これまでの社会の
生産と消費と富の独占が
幸福につながる・・ということが
そうではない・・と証明されつつある。
そのことは物質文化を
止揚すべく
より高い精神の水準へと
人間がジャンプできる過渡期に
なっているように思います。
きっとこの社会も死にそうに
なりながらも
でもそこから希望へと
むかうでしょう。
もつと
本質的な複雑で深く大きな文化の統合へと
進むかもしれませんね。
空洞化した巨木が
どんどん倒れて行き
ちいさな新しい芽がでてくる
そういう時代かもしれません。
その時何を希望とするのか
チャ―ンと考えていなくてはと
思います。
『伝心柱マガジン』もやっちょります。
よかったらどうぞ!
マガジンに参加してくれた新しい彼女の記事が
ありますよ!
● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
でも記入はご自由にどうぞ!