2011年 12月 13日
シリーズ「残念なひとびと」・・・ほんとうのことが聞こえなくなるとは。 |
一昨日
・人間の心の奥の奥の奥の
底の底の底には
真実をちゃーんと知ってる自分が
いる。しかし
その声が聞こえても
無視したり
聴かなかったりすると
だんだん
ほんとうに
聞こえなくなる。
子供の頃は
まだまだやわらかく
その声は
心の一角にちゃんとあるのですが
大人になればなるほど
老人になればなるほど
聞こえなくなり
ついには
はるかとおくに、かすかにきこえていても
自分の自我がもう
その声を聴くことを
赦さなくなってしまう。
と
書きました。
どうしてそうなるか・・・・?
人間は生まれ落ちた瞬間から
人間社会に適応できるように
体中をつかって情報を脳に
集めます。
その時基軸になるのは二つ
生命を脅かす危険や危機に対しての
防衛反応と
社会に適合し、他者と
共感していくための情報です。
しかしその情報そのものが
その子供の身辺情報にすぎず
子どもがまだ保護下にある場合は
有効であるが、
その近辺領域を越えて
外的世界に出た時は
その情報がきわめてローカルなものに
過ぎないために
様々壁にぶつかり
修正を余儀なくされてしまいます。
その修正が旨く行くといいのですが
子供の頃つまり
前半に身に着けた情報が
あまりにも強烈な場合
なかなか修正が効きません。
よほどショックなことがない限りです。
そういう情報を統括するのが
いわゆる自我で
自我というのは
いったん思い込んだら
なかなか修正が
効かないのです。
子供の頃の
まだ
情報を集めている段階においては
情報の正確さの方が重要ですから
自我はまだまだ修正を重ねていきます。
その時の自我のキーワードは
「安心」です。
自分のこころが「安心」するものを
とり込んでいきます。
たとえそれが客観的には
歪んだり、間違ったりしていても
本人にとって
「安心」するものです。
安心すると
身体も「ほっと」します。
身体の緊張が取れるんですね。
しかしこの「安心」も
個人差があり
またそのこどもが置かれた環境内での
「安心」ですから
この「安心」が揺らいだり
否定されたり
傷つけられたりして
不安定になると
自我がパニックになり
どうしていいかわからなくなるので
とりあえず
自分が思い込んでいることを
守ろうとするのです。
つまり現状維持を図ろうとする。
しかしアタマの隅では
自分に起きてる異変と
自分の内部の想定と外部のの差異を
しきりに考えているはずですから、
もしかしたら自分の思い込みに
間違いがあるかもしれないとか
相手や外部情報のほうが
正しいのかもしれない・・という
事象の検証があり、
自我がこれは
自分の思い込みのほうを修正すべきと
決心した場合は
修正を受け入れていきます。
子どもも生育するにつれ
自分の親を中心とする近辺情報の
間違いや、親の言動の矛盾など
自分の獲得した情報との差異に
気づいてきます。その時こそ
反抗期で、
強い意志のもとに情報の修正を
したいという行動です。
が
その時
大きな問題となるのが
感情に刻まれてしまった
恐怖、怯え,不安などで
それは何かの作用で
強い衝撃電流が
脳にはしりそれが
自我に強固にこびりつき
定着してしまっている場合です。
また常態的に繰りかえされる
強い恐怖や
不安の中を
常に生きてきたことによる
自己防衛として
恐怖、不安が常に強化され
自我を支配してしまった。
そういう風に
強化されてしまった自我の感情は
心の奥の方では
間違いをわかっていても
なかなか修正できません。
修正する前に
恐ろしいほうが先に来る。
また
人間の文明が造ってしまった
”人間の文脈”における
ゆがんだ価値観や思い込も
共同ののもとして
多くあり
(たとえば常識とか、正義とか、社会的懲罰とか・・・ですかね)
人間社会そのものが
争い、競争、をもとにした
”序列社会”を形成してきましたから、
自我のなかには
自分の設定した(思い込んだ)序列から落ちる
敗北するということに対する
強い恐怖があります。
それは物理的に
敗北するというだけでなく
心理的な敗北を
自我が極度に恐怖するという
心的現象にもなっています。
人間の中には
自分の危機や危険にたいしての
防衛本能もありますが、
それと同時に
他者と一緒にいきていこうと・・という
共生、共感の本能も
あります。
その二つを常に無意識が
バランスをとりながら
生きていますから
自分の情報の偏りが
そのどちらかを脅かすことに
対して
心理はまだまだ
情報収集の子どものときの方が
やわらかく反応します。
しかし成長して、
一応の情報収集が一段落すると
今度はそれをもとに
自己防衛をして世界へと
出ていかなければならなくなった時
自分の情報を基盤にしているわけですから
その基盤がゆすぶられると
当然自我が不安に陥ります。
その時
強度な不安や恐怖を持っている人間ほど
自分の情報のほうにしがみつき
他者の情報に搖動されないように
します。
その上になお
人間としての序列的なプライドが付加されていると
なおさら自我は守りに入り
他者を拒否し
自己の修正を
しないですむ・・・ように
工作します。
自分に言い訳を与える、
とか自己合理化ですね。
私などは
自分に抵抗感があるときは
たぶん自分に問題があると
自覚しています。
そこから自分にメスをいれてゆくと
あゝこれがそうだったのかと
その正体がみえてきます。
つまり
自分の思い込みを
修正しなければならないほど
自我は動揺し
現状を維持しようと
抵抗するのですね。
と同時に
以前のブログで
怒りの根には不安があると
書きましたが、
怒りは自分のアイデンティテーが
切くずされそうになるときに起きる
不安の抵抗エネルギーです。
かなり雑駁にかきましたが
それでは
人間の心の奥の奥の奥の
底の底の底には
真実をちゃーんと知ってる自分が
いる。その
真実とはなんなのでしょうか・・・。
それは
人間が一人では生きれないという事を
知っている・・ということ。
ほんとうは
他者となかよく
一緒に生きていきたいという
共生と共感のプログラムを
どんな人間も
持っているのですよ。
決して自立しては生きれない
未熟な生き物として
人間の赤ん坊がこの世に出た瞬間から
その赤ん坊を取り上げた
他者の”手”を感じた瞬間から
人間は自分と他者と共有の宇宙でしか
生きれないことを知ります。
だからいつも心のなかに
他者を内包しながら
”ひと”は生きています。
そしてその時自分の生命活動を
遂げさせていくのは
「安心}するという人間の心身の状態です。
赤ん坊はしっかりとした
他者(自分以外の人間)のてで
受け止められて始めて
安心して生きることが
はじまります。
だから
人間はいつも
できたら
安心したいと願っていきている。
しかし不安や恐怖のほうが先行すると
迷いや不信が起きてきて
身を固くして防衛にはしり
自我はいよいよそこに依拠し
脳はそれを強化してしまいます。
生命喪失の危機の恐れのほうが
優先されてしまうのですね。
自分の現状を維持することの方へと
シフトされ
自分を変えることの方が
捨てられたいきます。
その時
こころのおくのおくの方では
違うでしょ!
そういう風に自分を尖らして
防御するのではなく
和解して
或いは
受け入れて
仲良く一緒に生きることのほうが
あなたの本位で
真実でしょ!と
必ず言っているはずです。
しかしもう防御で固くなった自我は
なかなか溶けることができないし、
不安や恐怖に纏いつかれた自我も
自己防御の計算ばかりするし
ほんとうは
そういうこといっさいを
ほうりだして
握手し、抱擁したいのに
身体を固くして
拒んでしまう。
長い間に防護ばかししか
してこなかった人間は
どうしたら和解できるのかという
方法も知らない。
でも
誰でも経験があるでしょうが
そういう自分の頑なさを
越えて
他者と和解したとき
他者となにか通じ合うことができた時は
こころもからだもほっとして
そこにはかならず
自分が
いるでしょ!
自分が自分を裏切り
自分のほんとうのこころに
そっぽを向いているかぎり
アタマも下げずにすむし
自分を変えなくてもすむし
表面的には
敗北を味あわない自分を維持できるけど
こころもからだも
緊張を解くことができない。
それは本来の生命がめざしている
生命活動ではありませんから
当然ストレスがかかります。
そうしてやがて老人になったとき
その人は
何をてにいれるのでしょうかねえー!
やわらかい自分
ひととふれあうことによる
安堵や安心。
たとえ一人で生きていても
心の中の地平には
同じように生きている人間への
共感や共生感があり
決して孤立した孤独では
ない。
生命は常にその人間を
生かそうと
働く。
まさに生命は
その人を
愛している・・ですね。
その
愛のことば
こころの奥の奥の奥の底から
聞こえてくることばを
だれもが
すべての人が
もっていると
いう事なんです。
ね・・・・。

『伝心柱マガジン』もやっちょります。
よかったらどうぞ!
マガジンに参加してくれた新しい彼女の記事が
ありますよ!
● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
でも記入はご自由にどうぞ!
・人間の心の奥の奥の奥の
底の底の底には
真実をちゃーんと知ってる自分が
いる。しかし
その声が聞こえても
無視したり
聴かなかったりすると
だんだん
ほんとうに
聞こえなくなる。
子供の頃は
まだまだやわらかく
その声は
心の一角にちゃんとあるのですが
大人になればなるほど
老人になればなるほど
聞こえなくなり
ついには
はるかとおくに、かすかにきこえていても
自分の自我がもう
その声を聴くことを
赦さなくなってしまう。
と
書きました。
どうしてそうなるか・・・・?
人間は生まれ落ちた瞬間から
人間社会に適応できるように
体中をつかって情報を脳に
集めます。
その時基軸になるのは二つ
生命を脅かす危険や危機に対しての
防衛反応と
社会に適合し、他者と
共感していくための情報です。
しかしその情報そのものが
その子供の身辺情報にすぎず
子どもがまだ保護下にある場合は
有効であるが、
その近辺領域を越えて
外的世界に出た時は
その情報がきわめてローカルなものに
過ぎないために
様々壁にぶつかり
修正を余儀なくされてしまいます。
その修正が旨く行くといいのですが
子供の頃つまり
前半に身に着けた情報が
あまりにも強烈な場合
なかなか修正が効きません。
よほどショックなことがない限りです。
そういう情報を統括するのが
いわゆる自我で
自我というのは
いったん思い込んだら
なかなか修正が
効かないのです。
子供の頃の
まだ
情報を集めている段階においては
情報の正確さの方が重要ですから
自我はまだまだ修正を重ねていきます。
その時の自我のキーワードは
「安心」です。
自分のこころが「安心」するものを
とり込んでいきます。
たとえそれが客観的には
歪んだり、間違ったりしていても
本人にとって
「安心」するものです。
安心すると
身体も「ほっと」します。
身体の緊張が取れるんですね。
しかしこの「安心」も
個人差があり
またそのこどもが置かれた環境内での
「安心」ですから
この「安心」が揺らいだり
否定されたり
傷つけられたりして
不安定になると
自我がパニックになり
どうしていいかわからなくなるので
とりあえず
自分が思い込んでいることを
守ろうとするのです。
つまり現状維持を図ろうとする。
しかしアタマの隅では
自分に起きてる異変と
自分の内部の想定と外部のの差異を
しきりに考えているはずですから、
もしかしたら自分の思い込みに
間違いがあるかもしれないとか
相手や外部情報のほうが
正しいのかもしれない・・という
事象の検証があり、
自我がこれは
自分の思い込みのほうを修正すべきと
決心した場合は
修正を受け入れていきます。
子どもも生育するにつれ
自分の親を中心とする近辺情報の
間違いや、親の言動の矛盾など
自分の獲得した情報との差異に
気づいてきます。その時こそ
反抗期で、
強い意志のもとに情報の修正を
したいという行動です。
が
その時
大きな問題となるのが
感情に刻まれてしまった
恐怖、怯え,不安などで
それは何かの作用で
強い衝撃電流が
脳にはしりそれが
自我に強固にこびりつき
定着してしまっている場合です。
また常態的に繰りかえされる
強い恐怖や
不安の中を
常に生きてきたことによる
自己防衛として
恐怖、不安が常に強化され
自我を支配してしまった。
そういう風に
強化されてしまった自我の感情は
心の奥の方では
間違いをわかっていても
なかなか修正できません。
修正する前に
恐ろしいほうが先に来る。
また
人間の文明が造ってしまった
”人間の文脈”における
ゆがんだ価値観や思い込も
共同ののもとして
多くあり
(たとえば常識とか、正義とか、社会的懲罰とか・・・ですかね)
人間社会そのものが
争い、競争、をもとにした
”序列社会”を形成してきましたから、
自我のなかには
自分の設定した(思い込んだ)序列から落ちる
敗北するということに対する
強い恐怖があります。
それは物理的に
敗北するというだけでなく
心理的な敗北を
自我が極度に恐怖するという
心的現象にもなっています。
人間の中には
自分の危機や危険にたいしての
防衛本能もありますが、
それと同時に
他者と一緒にいきていこうと・・という
共生、共感の本能も
あります。
その二つを常に無意識が
バランスをとりながら
生きていますから
自分の情報の偏りが
そのどちらかを脅かすことに
対して
心理はまだまだ
情報収集の子どものときの方が
やわらかく反応します。
しかし成長して、
一応の情報収集が一段落すると
今度はそれをもとに
自己防衛をして世界へと
出ていかなければならなくなった時
自分の情報を基盤にしているわけですから
その基盤がゆすぶられると
当然自我が不安に陥ります。
その時
強度な不安や恐怖を持っている人間ほど
自分の情報のほうにしがみつき
他者の情報に搖動されないように
します。
その上になお
人間としての序列的なプライドが付加されていると
なおさら自我は守りに入り
他者を拒否し
自己の修正を
しないですむ・・・ように
工作します。
自分に言い訳を与える、
とか自己合理化ですね。
私などは
自分に抵抗感があるときは
たぶん自分に問題があると
自覚しています。
そこから自分にメスをいれてゆくと
あゝこれがそうだったのかと
その正体がみえてきます。
つまり
自分の思い込みを
修正しなければならないほど
自我は動揺し
現状を維持しようと
抵抗するのですね。
と同時に
以前のブログで
怒りの根には不安があると
書きましたが、
怒りは自分のアイデンティテーが
切くずされそうになるときに起きる
不安の抵抗エネルギーです。
かなり雑駁にかきましたが
それでは
人間の心の奥の奥の奥の
底の底の底には
真実をちゃーんと知ってる自分が
いる。その
真実とはなんなのでしょうか・・・。
それは
人間が一人では生きれないという事を
知っている・・ということ。
ほんとうは
他者となかよく
一緒に生きていきたいという
共生と共感のプログラムを
どんな人間も
持っているのですよ。
決して自立しては生きれない
未熟な生き物として
人間の赤ん坊がこの世に出た瞬間から
その赤ん坊を取り上げた
他者の”手”を感じた瞬間から
人間は自分と他者と共有の宇宙でしか
生きれないことを知ります。
だからいつも心のなかに
他者を内包しながら
”ひと”は生きています。
そしてその時自分の生命活動を
遂げさせていくのは
「安心}するという人間の心身の状態です。
赤ん坊はしっかりとした
他者(自分以外の人間)のてで
受け止められて始めて
安心して生きることが
はじまります。
だから
人間はいつも
できたら
安心したいと願っていきている。
しかし不安や恐怖のほうが先行すると
迷いや不信が起きてきて
身を固くして防衛にはしり
自我はいよいよそこに依拠し
脳はそれを強化してしまいます。
生命喪失の危機の恐れのほうが
優先されてしまうのですね。
自分の現状を維持することの方へと
シフトされ
自分を変えることの方が
捨てられたいきます。
その時
こころのおくのおくの方では
違うでしょ!
そういう風に自分を尖らして
防御するのではなく
和解して
或いは
受け入れて
仲良く一緒に生きることのほうが
あなたの本位で
真実でしょ!と
必ず言っているはずです。
しかしもう防御で固くなった自我は
なかなか溶けることができないし、
不安や恐怖に纏いつかれた自我も
自己防御の計算ばかりするし
ほんとうは
そういうこといっさいを
ほうりだして
握手し、抱擁したいのに
身体を固くして
拒んでしまう。
長い間に防護ばかししか
してこなかった人間は
どうしたら和解できるのかという
方法も知らない。
でも
誰でも経験があるでしょうが
そういう自分の頑なさを
越えて
他者と和解したとき
他者となにか通じ合うことができた時は
こころもからだもほっとして
そこにはかならず
自分が
いるでしょ!
自分が自分を裏切り
自分のほんとうのこころに
そっぽを向いているかぎり
アタマも下げずにすむし
自分を変えなくてもすむし
表面的には
敗北を味あわない自分を維持できるけど
こころもからだも
緊張を解くことができない。
それは本来の生命がめざしている
生命活動ではありませんから
当然ストレスがかかります。
そうしてやがて老人になったとき
その人は
何をてにいれるのでしょうかねえー!
やわらかい自分
ひととふれあうことによる
安堵や安心。
たとえ一人で生きていても
心の中の地平には
同じように生きている人間への
共感や共生感があり
決して孤立した孤独では
ない。
生命は常にその人間を
生かそうと
働く。
まさに生命は
その人を
愛している・・ですね。
その
愛のことば
こころの奥の奥の奥の底から
聞こえてくることばを
だれもが
すべての人が
もっていると
いう事なんです。
ね・・・・。

よかったらどうぞ!
マガジンに参加してくれた新しい彼女の記事が
ありますよ!
● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
でも記入はご自由にどうぞ!
by denshinbashira
| 2011-12-13 11:33
| 「残念なひとびと」
|
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