シリーズ「残念なひとびと」・・・父母未生いぜんの私! |
中村うさぎさんとマツコデラックスさんの
往復書簡なる本があった。
中村うさぎさんに関しては
以前書いたブログで
"自他分離"ができていないと指摘し
それに対してのコメントが
最近何本か入っていたので、
もう一度、確認してみるかあーと
買い
読んでみました。
が
ああーこういう次元ではなー・・・と
途中で
読むのを中止しました。
まあ、内容もさるものながえら
書いてる言葉や文章が
なんか
石ころ道をあるいるような
心地悪さがあります。
それは偽悪的な言葉を自己防衛的に
発せられている、或いは
演じられているせいで
ことばと呼吸が一致しておらず
(そういうことも文章にはあらわれてくるんですよ)
ほんとうのご本人のことばでは
ないからではないかと
私には思えます。
私はいくらでも汚い言葉や
下品な表現があっても
いいと思っていますが、
その言葉の裏に
自我の稚拙さが潜んでいると
せっかくの
その汚なさや下品さが
死んでしまう。
そうして浮かんできたのが
「自己否定がたりない!」という
ことばでした。
厳しいですねえ・・・・。
日ごろ私は、
自分のすべてを自己肯定せよ・・と
書き続けているのに
おかしい・・と
思われる方もいるでしょうねえー、
当然です。
しかし
究極のカウンセリングは
自己否定の完成なんですね。
どうしてそうなのか・・・。
それを説明するのは
とても難しいことなんですが
がんばって
書いてみましょうね。
このことを書こうかなーと
考えている時に
思いついたのが
夏目漱石と太宰治です。
特に太宰治はに関しては
中途半端な「自己否定」を
垂れ流したと
私は思っています。
あゝー太宰のファンに殺されそうですねえ・・・!!
そしてその
対極にあるのが
夏目漱石です。
私は子供の頃、
鎌倉の裏にある大船からちょっと先の
藤沢市御弊山の上に住んでいましたから、
高校生の頃、
漱石を読み
”門”の舞台である北鎌倉の禅寺
”円覚寺”に
度々行きました。
円覚寺は深い森の静謐の中で
修行僧たちが暮らしており
そこへ行けば自分が抱えていることへの
深い答が
なぜかあるような気がしてです。
カウンセリングの本質というのは
自分の生育期に身に着けてしまったことを
徹底的にはぎとっていき
その人間にとってより生き易い
”心理的、身体的自由”を
獲得してゆくものです。
しかしそれは
自分の内面に正面から向かい
自分が身につけてしまった
自我の思い込みを
徹底的に否定していかなければならない
苦しい修行のようでもあります。
これまでの自分の中に抱え込んできた
不安や怖れと戦い
自分に張り付いてしまった自我の意識を
はがしていこくとですから
大変な作業です。
しかしそれを
やりおえたときこそ
そこに
本来の自分と
自分が生きていきたいビジョンとが
生まれてきます。
親を退治することで
親からわたされたさまざまな
親の闇や毒を浄化し
親と分離することにより
やっとその人間本来のゼロ地点へと
立脚することができてきます。
禅の修行も様々な禅の規範のなかに
閉じ込められ、
自分の自我の自由を封じられたところから
始まります。
一挙手一投足どころか
指の使い方から足の
歩き方まで
徹底的に規範化された日常を
生きなければならない。
それは心身ともに
自分が身につけてしまった
この世のあれこれ
自分の俗的内容を
そぎ落とし
深い座禅の集中と静謐のうちに
感情の汚れや垢をおとし
煩悩を越えて
父母未生以前の自分まで
到達しようとする。
つまり
自我が融けて、消えていくところまで
自分を洗っていくと
そこに無明を越えた
明らかな世界が
顕れる。
そのために
厳しい修行と戦い
内面の自我との葛藤を
凌駕して
カウンセリングでいうと
前半の人生で身につけてしまった
世俗的な思い込み
或いは
思い込まされた
父母の迷いの世界・・・を
そぎ落としていくのですね。
苦悩する漱石の前にたちはだかった
円覚寺の門は
高くそびえ、迷うものを入れてくれません。
その門の前で春秋する漱石に
だされた禅の公案
「父母未生以前の・・・私」とは・・・?
たいがいの人は
父母のところでとまっているが
カウンセリングが完成されるのは
親を越えていき、そこにある
自分本来の世界を開くことです。
それはつきつめていくと
自分が生まれる前の
もっとその奥にある
父母未生以前の”わたし”
自我の私が消えているわたしという
私の"ゼロ地点"から
生き直して行くことです。
そして
そこへ行きついたときはじめて
ああー今までの自分は
ここへ来るために
つまり深く自分の本質とむきあい
理解するために
すべて必要なことだったのかと
理解できるのです。
厳しく言いますと
太宰は”自己否定がたりない”から
心中したのでしょう!
自己否定がたりないから
自傷行為をする。
中村さんも作家として
人間のことを追究するなら
そういう
買い物依存とか
整形とかキャバクラ云々・・・とかいう
甘ったれの自己否定ではない
自己否定に向き合われたらと
思います。
それらは
もう一つの仮面に自己防衛を
すり替えたにすぎませんから。
彼女の中にある
強い”憎しみ”と
真正面から向き合うと
いいです。
更に高次の次元をめざしてね。
正面からの自己追求がなされたら
きっと
あのごろごろした居心地の悪い言葉も
きっと浄化されていくと
おもいますし
そのときこそきっと
内部から溢れ出る
透きとった言葉が天から落ちてくるでしょう!
そうなると
いいですね。
こういう自己否定の極地こそ
おおくの古典的宗教者が到達した地点で
そこには
自我が融解し
自他の分離をさらに超越した
人間の普遍的な透明のエネルギーが
流れます。
ちょうど一昨日書いた”魂”のエネルギーです。
それは自他の利害を超えて
自分の自我のエゴを越えて
人間すべてを抽象化してとらえている
”自分”です。
善悪、倫理 道徳などの
人間の文脈をこえて
”存在”そのものを
愛おしむ感情の
エネルギーです。
凡人は瞬間的に
その”魂を揺すぶられる瞬間”を感じます。
修行僧たちは
おそらく修行を究め
座禅の沈黙と集中のなかから
その境地へと入ってゆくのではないで
しょうか。
カウンセリングの場合は
自分の愚かさや
心のいたみにたいしての
優しい眼差しが生まれた時
どうように、
傷つきながら頑張っている他者に対しても
深い人生の洞察からの共感と
慈しみはうまれます。
それはいかなる境遇にいようとも
いかなる差別や
差別的制度や社会のなかにあっても
自分の生まれや育ちや容姿が
劣っていても
びくともしない
自分への信頼であり
他者への信頼です。
それが信じられないから
クダクダと自己憐憫,自傷行為
そして
心中なんかしちゃうんですね。
だれもそういう超越的な心境まで
いくことができる訳ではない。
しかし
それでも、日常のわずらわしいことを
引きうけながら
あれこれと
煩悩や迷いに振り回されながらも
無意識の底の底の底ほうには
確実に
生きる喜びがあります。
そして
ホントはね
無意識領域で
誰もが
無意識におこなっている行為
「自分への信頼」の回復が
あるのですよ。
一晩寝れば自分がまた回復していきます。
※(それがあるから人はおちこんでも
たちなおるです、
だから生きていけるんですよ!)
人間はそういう風に弾力的に
プログラムされているのです。
いうなれば脳は、命は、
いつも
前へと進むことばかり
考えている・・・・笑!
そういう苦しいこと
辛いことを
繰りかえしながら
人間は学習し
一皮ずつ
自分を剥きながら
生きています。
意地悪く否定するのではなく
新しく生きるために
自己否定をしているのです。
自己を肯定するためにね。
いや自己を肯定するために
自己否定する、
ですかね・・・。
漱石が最後に辿りついた
「則天去私」という境地も
人間の深淵を覗いた
とても深い境地です。
彼はその苦悩の中を歩きつづけたのち
おそらく言葉にはならない
澄みきった
晴朗なる天地に立ったのだと
思います。
いうなれば
みんな
そういうところへの
途中を
今
生きているのだと
思います。


よかったらどうぞ!
マガジンに参加してくれた新しい彼女の記事が
ありますよ!
● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
でも記入はご自由にどうぞ!
