シリーズ「残念なひとびと」・・求めよ、されば、与えられん! |
私の学生の頃は一つの教養として
聖書を読んだもんだが・・・。
聖書はキリスト教の聖典としてだけではなく
宗教を越えて
人生の手引書としては、
読みやすくわかりややすく
大変参考になる。
またその表現は抒情的で
広い麦畑の麦が風に揺れる中を
イエスと弟子が麦の穂をつまみ
口に入れながら通り抜けるさまなど
それはあの
ゴッホの風に揺れるの麦畑のようであったのか・・・と
私の連想が刺激される
イエスのたとえ話は
題材豊かで民衆の心へと
ストレートに入ってくる。
弟子とともに
辻説法しながら
各地を放浪するイエス!
小高い山(丘)にのぼり
貧しきものは幸いであるから
取り囲む群衆に語りかけるくだりは
貧しさに苦しむもの
こころの痛んだもの
自分に苦しむもの達への
大きな愛に満ちている。
さらにお前たちこそ
地の塩!
塩のようにこの世(地)を
味付け、この世の役にたつ
たいせつなひとり、
無くてはならない一人だと
戒める。
自分の隣人を愛し
敵をあいし自分を
迫害するものこそを
愛せといいます。
天は悪いひとにも
良いひとにも
太陽をのぼらせ
雨を降らせる。
他者を赦すことが
自分を赦すことであり
また
天に宝を蓄えよ、
そこに害虫もおらず錆びもつかず
盗人もいない。その
宝のあるところに
その人間の心があると
説く。
自分の命のことで
何を食べようか
何を飲もうかと心配したり
身体のことで迷うな。
また何を着ようかと心配するな。
空の鳥は種蒔きもせず刈り入れもせず
蔵に収めないでも
ちゃんと天に生かされているでは
ないか・・・と。
野のユリは働きもせず紡ぐこともしないが
栄華を極めたソロモンでさえ
この百合の一つほどに
美しくはない・・・。
明日は炉にくべられるこの野の草さえも
これほど美しく咲かしているのだから
まして人間を
天が愛さないわけがない!
他者をさばくな
他者をさばくことは。
自分も
さばかれることだ。
他者の中の目に塵をみつけても
自分の目に塵が入っていることを
しらない。
他者の塵を取る前に
自分の目の中の塵を取れ
そうすれば
ものごとがはっきりと
見えてくるだろう!
求めなさい
そうすれば
与えられるだろう。
叩きなさい
そうすれば
門は開らかれるだろう・・・。
狭い門から入りなさい。
滅びにいたる門は
大きく、その道は広い、
しかし
いのち(真理)に至る門は
小さくせまく
それを見出すものは
まれである。
今読んでみると
カウンセリングの
理にかなっていることばの
数々で
なるほどなるほどと
感心するが、
若き日の私は
この聖書の言葉に
ずきずき胸を刺されながら
何度も自分を立て直しました。
イエスが実在したかどうかはまだ不明ですが
イスラエルの死海という湖の近くで
発見された「死海文書」というものが
発見され、
そのそばのクムランというところで
「クムラン宗団」という
宗教の共同生活施設があったらしいのです。
そのクムランのリーダーが
神からつかわされた予言者・・・として
処刑されており
イエスのモデルかもしれない・・・と
いわれているらしい・・・ですが・・・?
キリスト教を
救世主の宗教として
せかい宗教へとなる基礎を造ったのは
パウロだといわれています。
自分を愛すること
それは自分の内面を
しっかり見つめることで
答えが出てくる。
そして
自分の殻に閉じこもらず
門を開き戸を叩き
もとめなさい。
自分の手で
叩き
自分のこころから
求めなさい。
きっと与えられるよ!と
イエスは言ってます。
わたしも
そう思います。
ますますそう思い
ます。
『伝心柱マガジン』もやっちょります。
よかったらどうぞ!
マガジンに参加してくれた新しい彼女の記事が
ありますよ!
● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
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