シリーズ「残念なひとびと」・・・日々を深く生きる。 |
日々のアリトアラユル事を
脳が自動的に分別し
記述したものです。
ですから
日々何気なくやっていることなどは
ほんとうに大切なことで
そういう事の積み重ねの真っただ中を
私たちは生きているのです。
その時無意識が自動的に
取捨選択して脳の記憶に
書き込むことについては
私たちはコントロールできません。
ただいえることは
いつも使われる回路はどんどん
強化されていくという事です。
だから
まっいいかと
いつも流して生きていると
そのまっいいかが
脳の定番になり常態化してしまい
ほんとうは
じっくり
集中して
考えを
深化させなければならないことも
まっいいかと
浅いところで流してしまう恐れが
あります。
逆に
いつもいつも
物事を深刻に捉えてしまうことが
常態化してしまった脳は
些細なことにも
深刻になり
自分の行動や行為に
いつもブレーキをかけてしまう
過剰な反応で
にっちもさっちもいかなくなることが
あります。
こういう人は
物事を深読みしない・・という
訓練がひつようなのですが
今日はいつも
浅くいきてしまっている人のために
”日々を深く生きる”という事を
書きたいとおもいます。
現代は忙しく、その忙しさゆえに
ほんとうは、立ち止まり
ゆっくり解決してゆかなければならないことを
まっいいか・・と
流して生きてしまう・・という事が
おおいのかもしれません。
しかし
その”まっいいか”と
ながしてしまうことが
脳のなかで常態化することは
じぶんが気づかないうちに
とても大変なことになってしまいます。
つまり
脳がもうそういう風になってしまい
そのひとの生きかた,
浅く流す生き方に
なってしまうんですね。
もしかしたら流してしまったことの中に
なにか大切なものが
あるかも
しれません。
そうなってしまうことの原因には、
そんなことに
いちいちかまってられない
立ち直りは、早い方がいい・・・と
思い込んではいないでしょうか・・?
だから
深く考えずに
さーっと流してしまう。
じぶんが深く傷つかないように
サーッと流すことは
もしかしたら
自分が受け止め考えなければ
ならないことをも
サーッと流しているかも
しれません。
特に
自分にとって深刻な事や
ほんとうは
考えなければならないこと、
また
突きつけられていることが
面倒くさく
厄介なので
さーっと
流してしまう
なかったことに
してしまう。
それは一見、賢い
自己防衛のように見えますが
瞬間瞬間に
じぶんが
軽く扱われ
自分の大切な何かが
安易に、
表面的処理をされてしまうことにも
なりかねません。
逆に自分にとって重たいことは
実はその中に
その人間の生き方に対する
たいせつなメッセージがあるから
重いのです。
処理能力の優れているひとほど
この大切なメッセージを
ポイと無意識に
流してしまいます。
例えば言葉の端々にある
ちょっとした助詞や
助動詞のなかに
とても大切なニュアンスがあるのにそれを
聞き逃してしまったり
相手のなかにある
ほんとうに伝えたいことを
”一般的”なこととして
平板に扱ってしまう。
つまり
流していることが
上手くなればなるほど、
いろんなことが
ピンという実感を
もって
身体の中に
入ってこなくなる。
処理能力が高いひと
或いは
物事を流してしまう人の深層心理には
もしかしたら、
他人のことばを
あまり聞きたくない・・・という
他者への抵抗や拒否が
潜んでいるかもしれません。
それと同時に
自分のことも
深く掘り下げたくない・・という
プロテクターがあり
深く掘り下げるより
アタマを常に回転させながら
自己防衛や
自分への言い訳を
考える方に
脳の機能がシフト化しているかも
しれません。
そこにあるのは
幼児期につよい自己ダメージを受け
自分にこだわることへの
躊躇や
自己否定や
自己自罰があり
自分をほりさげるのが
恐ろしいのかも
しれませんね。
自分ほりさげるより
聞き流しておかないと
じぶんが辛くなるという
状況があったかも
しれません。
日々深く生きていると
じぶんがあやうい
自分がしぼんで
エネルギーがうばわれてしまう。
だから
他者のことばも
ほんとうは
しっかり受け止めなければ
ならないことも
さーっと
流してしまう。
そういうことが身についてしまい
そういう脳になってしまっている。
それは前半の人生では
有効に働き
自分を守れたかもしれませんが、
後半の人生では
どんどん自分が空っぽになっていきます。
自分の感情も空洞化してゆくし
自分の内容を蓄積できないために
歳を重ねても
自分の中にどっしりとした
自信を構築できませんし
自分という実感に
乏しくなります。
もし
じぶんがこれまで
そういう風に
いろんなことを流してきたと
気づいたなら、
まだやり直しができます。
それはこれからの日々を
しっかり
深く
生きることです。
しっかり深くいきるとは
日々自分の中の
集中力が高くなって
いくことでもあります。
浅い人は脳の回転は速くても
集中が浅く、持続できません。
まずいろんな場面で
他者の話を
じっくり聞いて
すぐ反応しない。
このすぐ反応しない・・・ということが
とてもたいせつです。
そしてそれを
アタマではなくて
体で受け止める。
※逆にいつも深刻な人は
身体で受け止めないようにする。
その人は流すトレーニングが
必要です。
物事を流してゆく傾向の人は
”反応”する素早さはあるのですが、
集中して、言葉や物事を
自分の体の中に入れるということが
なかなかできません。
反応ばかりしてしまうのです。
だから
反応ではなく
身体を集中させるトレーニングを
して、
身体と脳で聴く
或いは両方で
考える(深化させる)という事が
できるようにしていきます。
次に
自分に起きてくる感情を
うけとめ
流さない。
自分に起きてくる不安や
怯えも
流さない。
流さないで
考える。
その感情を
ノートに書き留める。
書き留めて
自分の感情をしっかり
客観的に
見てみる。
自分はいったいどんな感情を
もちながら生きてるのかを
自覚するのです。
自分の中に
眼差しをむけてあげ
自分の感情を
愛するということです。
また
自分のなかの不安や怯えを
書きだして
その怯えや不安がどこから来るのか
何が原因かを
考え分析する。
考えても考えても、
もう頭がパンクしそうになる・・・かも
しれないけど
逃げないで
考え分析する。
苦しくなっても
決して
自己否定や
自己嫌悪
自己ディスカウントをして
そこを落としどころに
すり替えない!
逃げないで
考えるづける。
この考えるという行為こそ
始めは辛いですが
それを積み重ねていくことで
考えるという技術がついてきます。
身についてきます。
そして考えるという行為の奥には
答えをだそう・・という脳の働きが
あるはずですから、
脳がその問題を熟させた
思いがけないときに
ふっと
答えがうかびます。
昨日、久しぶりに茂木健一郎さんの
本をひらきましたら
偶然に
苦しいと感じる時こそ
脳が確実に鍛えられている。
脳が辛い経験をしているのを
我慢し、それを
乗り越えて、気がついたら
じぶんがあたらしいスキルを
みつけている
という文が目に入ってきました。
自分にとって
避けたいこと
ききたくないこと
しりたくないことや
考えたくないことこそ
逆に
腹をきめて
取り組んでいく。
そうして
自分を深めていく。
自分の集中力を
たかめていく。
そうすれば
やがて
いつの間にか
自分の内面が
深められて
日々を
深くいきるように
なれると
思います。
そしてできたら
一日のうちどこかで
自分が落ち着き
静かに
集中できる
祈りや
読書の
自分だけの時間を
味わうことができたら
いいですね。
深い日々を
いきるのは
呼吸が深くなり
身体の中が充実してきて
とても
楽しいです。
音楽を聴いている時
自分の全身がその音に
集中してるでしょ。
その軽い集中が
日々自分の中にある
そういう状態です。
そうなると
いいね。・・・!
『伝心柱マガジン』もやっちょります。
よかったらどうぞ!
マガジンに参加してくれた新しい彼女の記事が
ありますよ!
● 最近、ブログを書くだけで精一杯で、ちょっと疲れてきたので
コメントンに関しては、お返事を書かないことにいたしました。
でも記入はご自由にどうぞ!