シリーズ「共依存からの脱出!」・・・№2 親と子の共依存! |
すべての共依存の原型ともいうべきものが
「親と子の共依存」です。
これがーすべての元凶と
私は思いますねえー。
なるべく分かりやすく
そしてできるだけ
「親と子の共依存」から来る
弊害をかきますが
もしかしたら
取りこぼすかも知れませんので
それは
あとから
付け加えていきます。
そして今回も
この親と子の共依存から
脱出できたときはどうなのかから
書きましょう!
まず、世界観ががらりと
変るでしょう。
そして
自分を脅かしている人間の脅威の
正体が
わかりますから
人間を
他人を
恐れなくなります。
更に自己暗示と
トレーニングを重ねることで
ほんとうは
他人といきることは
とても楽しいことだと
わかってくるでしょう。
それはなぜなのかと
皆さんが
ああーそうかと
わかっていただけるよう
そこまで頑張って
書きつくそうと
思いますが
たぶん
今日では
書ききれないと
思いますので
続きとして
書いていきましょう。
では
本題へとはいります。
人間は二足歩行と引き換えに
赤ん坊を未熟児で
産まなければならなく
なりました。
だから人間の赤ん坊(子供)は
長期間親の保護下でしか
生きれません。
その結果親と子の密着度
密接度が濃厚で
たかくなってしまいます。
人間の赤ん坊はすべてを
親にゆだねるところからしか
人生を始められませんね。
だから親の方も
赤ん坊の意識や意欲は
寝る、乳を吸う、泣くぐらいで
あとはすべて
親の判断で決める・・・という
出発点からはじまります。
それは
悪くするとこの関係が
子どもが成長してもずーっと
保護する者と
保護される者との
固定関係の
イメージとして
意識の中に残ったまま
続けられてしまう可能性が
あるのです。
幼児が
反抗しだすまで
つまりイヤと言い出すまでは
まさか乳児にも幼児にも
親とは違う
意志や欲求がある・・という事を
ほとんどの親は
意識化できません。
イヤと言い出しても
そこには幼児なりの
親とは異なる
欲求や意志があることを
それを理解できない親の方が
多いでしょう。
まあそれも無理のないことなんですが。
親に自分をゆだねないと
生きることができない子供は
当然のように
親の指示、命令に従って
生きていきますが
しかし子供は
この世に生まれた瞬間から
自分を生きだします。
自分にとっての
自分と
自分以外という
境目を
脳と体で感知しながら
次第に
自分という
”意識の輪郭”を
造っていきます。
例えば生まれた瞬間に
赤ん坊はその分娩室に流れている
空気とか湿度とか
温度もそうですし
音とか
自分を抱いている人間の体温だとか
そのほかいろんな刺激を
その肌や耳やいわゆる
身体全身をとおして
感じ取っていきます。
それは
いわゆる母親の胎内では
母親をとおしてしか
得られかった情報を
生まれた瞬間からその子は
その子独自のアンテナの
外的刺激のなかから
情報を獲得していきます。
だからまず最初の瞬間からして
人間は
すべて
その人間独特の情報を持って
生きだすのですね。
だからすべての人間は
まるっきり
別の世界を
生きているのですぞ!
それが脳の働きで
赤ん坊はそういう風に
自分の中に情報を集めながら
自分と
自分以外の境界線(区別)を
だんだん理解していくのです。
そして
やがて3歳ごろには
それが集積されて
かたちとなって認識され
さらその外的世界に対して
はっきりとした意志をもつ
”自我”となって
表面にあらわれてきます。
しかし3歳児にとって
自分の意志があろうと
なかろうと
今の自分は
親の意志にしたがうしかない。
次第に自我が芽生えてきても
親に
保護され
育ててもらうしかないのですから
親というものが
絶対であり
幼児なりに
反抗しようとも
最後は
親あっての
子供で
親の意志のなかでしか
生きれません。
ほとんどの親は
子どもを可愛く
いとしく思いますが
そこに歴然とした
子どもにも意志や欲求が
満々とある
ということには
気づきません。
むしろ保護するために
指示や命令が
必要と思っていると
思います。そして
最も子供にとって最悪なのは
子どもを保護している親は
無意識のうちに
当然のように
”自分の都合や欲求を優先”し
子供におしつけますが
子どもの意志や欲求は
常に
”親の検閲下におかれた状態”に
あり
ほとんど無視されていきます。
この構図が
親と子の共依存の
原型となります。
そしてどんな親子も
始めは
この形の中で
みんな
生きています。
やがて
子どもは刻々と変化し
その子なりに
自分独自の情報を得ながら
自分の意識形成をしていくのに
親の方は
そのことを理解できません。
まるで
子どもが赤ん坊の時のように
自分の保護下で
自分が指示命令をださないと
動けないかのような
錯覚をもったままの接し方を
続けていきます。
よほど高い知識を
持っている親なら
子ども成長に対応して
自分を切り替えていきますが
そういう親を
私はみたことが
ありません。
つまり子供の意志や意欲は
大概の親には
理解できないのです。
ずーっと保護者意識で
自分の方が上位の意識で
きていますからね・・・。
こういう風にして
子どもは親を受け入れ
親の意識に囲まれ
それを
コピーしながら
成長していきますが
子どもがいよいよ自分の意志や欲求を
通そうとして
牙をむき出すのが
反抗期です。
この反抗期が大切でねー
この時親を
粉砕できれば
サイコーですねえ!
しかし
不発に終わると
もうーずーっと
子どもは
自分を取り戻すチャンスを
なかなか手に入れることが
ありません。
あとあるとしたら
子どもが
自分の生き方(親のコピーの生き方)は
おかしいのじゃないかと
気づくほどの
大きな
挫折ですかねー。
ほんとうは親が
子どもを世の中に送り出すために
子どもが独自で生きる力をつけ
子どもが雑草のごとく
生き延びてゆくために
自分と子供との関係を
保護から脱出へといく方向へと
切り替えてゆくこと。
そのために
子どもの生育とともに
何をどうするかを考え
子どもの自律を保障する
必要があります。
事と次第によっては
子どもから
全否定されて子どもが
自分を乗り越えていくことを
覚悟する必要があります。
自分との関係の中で
子どもの自律性を尊重して
接していくには
どうしたらいいかを
考える必要があるんですが、
今までそういう配慮のある親に
あったためしがありませんねー。
残念ながら・・・。
”親と子の共依存”の中にある親は
まさか子供が赤ん坊のころから
自分を築きながら生きてるなんて
思いもつかず
子どもは親の付属物であるかのような
或いは子供は
親の所有物であるかのような
錯覚をし
更に
子供が成育するにつれ
子どもを可愛がることで
自分の欠落感を依存させ
子どもなくしては
生きられないという
溺愛におぼれたり
お人形のように
或いはペットのように
仕立てたり
いつまでたっても
子どもを幼児扱いしたりします。
また
その逆に
このケースも多いのですが
成長した子供のほうが
いつの間にか
自分より
なんでもできてたり
知っているとして
大人として自信がない自分を
子どもに依存します。
最悪なのは
親の感情が勝ちすぎて
子どもが
自分独自の感情を持つことを
禁止し
子どもが自由に感じたり
考えたりすることを
禁じてしまいます。
子どもはほんとうは
〇〇と感じていたり
□□したいなあーと思っていても
「そんなのダメよ」と
却下され続け
子どもはだんだん自分で感じることを
禁じたり
自分の考えたことを
呑み込んでしまい
決して親に言わなくったり
つまり
自分を押し殺さければ
生きていはいけないのだと
思い込むようになる。
更に未熟な親になると
いつも愚痴を言ったり
感情的に不安定になったりして
子どもが
”親のおもり”を
しなくてはならない状態に
なってしまいます。
親の
機嫌を伺いながら
あるときは
子どもが親を慰め
子どもが親を
諭し
また感情の未熟な親は
子供がいつも親の感情の
捌け口として
犠牲になってしまい
親がいつ感情的になり
豹変するかと
びくびくしながら
子ども常に親の顔色を
伺いながらしか
いきれません。
なんという
不条理でしょうねー。
こうしていつも自分の欲求を
封じ込め
感じないように
考えないようにして
生きていったこどもは
やがて成長が進むにつれ
自分とは別の意志で生き
つまり親の意志を
自分の意志と思うようになり
ついには
自分の本当のことを
感じることも
できないようになり
また
自分が自分にとって自然な感覚や
考えや意志を持ったとたんに
”罪悪感”が走ったり
”自己否定”が起きたり
最終的には
自分の意志や欲求は
なにひとつ
かなえられないという
”無力感”が
体中に蔓延してきて
何をやっても
ダルイ
しんどい・・・ということばかりが
頭の中を巡り
ほんとうに
無気力になってしまいます。
この親と子の共依存の場合
子どもの中には
親に反抗したり
親と別の
感覚や考えを持つことへの
強い恐怖があります。
親と自分が分離してしまう事を
親と違う自分を
自分が意識することへの危機があり
大きな恐怖に感じています。
しかし
それは
潜在意識(無意識)のところで
いつもそのスイッチが
入っている状態なので
ほとんど本人は気づかず
無自覚な状態にあります。
そして
この
親との関係
親との葛藤が
やがて成長し
大人となっても
その人間の世界観や
人間観を支配し
親に感じていた脅威や
恐怖はそのまま
他人への脅威、
恐怖となってしまい、
その人間の人生における
世の中や
他人との関係のすべてを
この関係を前提として
行動して
しまいます。
更には
親の
間違った
或いは
歪んだり汚れた現実感を
そのまま
それが現実だと思い込み
真実だと思い込んで
その歪みの窓から
現実すべてを推し量って
生きてしまう事です。
さあーどうでしょう!
冒頭に書いた通り
自分の生き方の原型として
親への依存
親から依存されている自分
”親と子の共依存”から
脱出するということは
今まで自分が前提にしてきた
人間観や世界観がすべて
変ってしまいます。
その依存をはねのけ
自分の中にある
親からバトンされた
弊害を
頭の中から消し去ることで
やっと
本来の自分が顔を
出してきます。
それは
今まで
自分に押し付けられていた
親の価値観や
現実感とはちがう
実はかくして
封印していたけれど
自分の体や
自分の頭で
感じ
獲得してきた
自分の「ほんとう」の自分の
世界です。
更に
自分が親に対して感じていた
脅威や
不信感や
恐怖が
そのまま他の人間にも
同様に投影されたいたことを
取り除くことで
格段に他人への脅威
恐怖がとれ
他人があまり怖くなくなります。
人間が怖くなくなります。
私の場合もそれまでは
男の人が怖くてしかたなかたのが
今では
まったく怖くなくなりました。
それどころか
今の私は
男より自分のほうが強いと!と
自信があります・・・・・笑!
更に
親の感情のえじきにされて
他人の顔色ばかり
伺っていた自分が
親を粉砕することで
他人など関係なく
自分の自然な感情で
いきることができるように
なります。
これらがすべてが
すぐそうなる・・・とは
いきませんが
依存をやめて
ほんとうの自分の自然な意志や
欲求にもとづいて
生きだすことは
自分の中の委縮したエネルギーが
解放され
のびやかに
そして活力がでてきて
だんだん
そういう恐怖さえ
どーってことなくなります。
親を否定する
親を粉砕するなんて
そんなことなんて
出来る訳がない
あるいは
してはいけない・・・と
思い込んでいるひとこそ
たぶん親との共依存がつよいと
思いますよ。
今日書いたことは
アリとアラユル親子に於いて
その可能性があると
私は思っています。
逆に
親と子の共依存がない・・・という
親子のほうが
ほんとうに
稀でしょう。
共依存があってもいいのです、
それを
”共依存”だなあーと
知る
受け入れるだけでも
人生は違ってきます。
この親と子の共依存は
その人間の
人間関係のひな形として
更に
幼児を独立した人格だという
認識が欠けている日本には
この親子の共依存が
蔓延していますから
社会の在り方にも当然投影されています。
たぶん日本社会の病理には
これが深く影をさしていると
わたし思っています。
ああー今日もたくさん書いて
疲れました。
でも
まだ
きっと
取りこぼしたこと
伝えられなかったことが
あると思いますので
まだまだ
書いていきましょう!
では
またね。
『伝心柱マガジン』もやっちょります。
よかったらどうぞ!
マガジンに参加してくれた新しい彼女の記事が
ありますよ!