2012年 04月 28日
シリーズ”風のエッセイ” はたらきの中を生きる。 |
このブログを書きはじめたのが
58歳の時で
70歳になったら
風が吹き抜けるような文章を
書けるようになりたい
だから毎日が
そこへ至る修行であると思い
毎日書いてきました。
それには
70歳になった時の私が
自我の汚れがとれて
ヒョイヒョイと生きれるように
なること。
つまり自分の中に抵抗がなく
風がふきぬけるように
なっていないと
それは叶いませんから
そういう風になりたいなあーと
思って、
今もそう思っています。
どうしても”風”という言葉が
ついてくるのは、
風の又三郎の
「どっどど どどうど どどうど どどう」
と
青いクルミも
すっぱいかりんも
吹き飛ばして
生きるということ
と
もうひとつ
若いときにたくさん読んだ
井上洋治神父の本の中で
神父は
”神は働き”で
プネウマという
ことばが語られており
それが私の心の中に
焼き付いているからです。
”プネウマ”とはギリシャ語で
”聖霊”を表し
その語源は風が吹くことを
いいます。
神父は”神”は
”風”であり”働き”であると
記されているが
それは人格神…として
一元的に人間を支配する
西洋キリスト教とは
ちっと距離を置いて、
日本人の神父として、
神を問い続けた懊悩のなかから
生まれてきたことばではないかと
私は思っています。
神は息であり風であり
だから聖霊の語源は
”吹く”という動詞から生まれた
プネウマ・風である…と
神父は言う。
そして私も{神」ということばではなく
人間の中にある
「おおいなるもの」として
人間は
”働き”のなかに”在り”
常に
息・エネルギーが通り抜けて
生きているのだと
思っています。
そのエネルギーに
纏いつく
汚れや垢や油汚れが取れた時
その息・エネルギーは
風のように
清々しく
私たちの身体の中を
通り抜けていくだろう・・・と。
そういう自分の姿をめざし、
まだまだそこには
到らず
今だ藪のなかにいますが
この記事も
”風のエッセイ”としました。
そして
自分の中の
自我の汚れや
しこってしまった感情を
そぎ落して
ただただ働きの中に
生きていることが
できますようにと
そこへ自分をどう運んでいくかなーと
日々
考えています。
最近読んだ本の中に
人間の聴覚は
20キロヘルツ以内の音しか
聴くことができないが、
最近の脳の研究では
100キロヘルツ以上の高周波も
脳は
キャッチしており
耳では聞こえないが
人間はそういう
聞こえない音もキャッチし
脳幹を変化させながら
生きている・・・ということです。
だから人工的な音ばかりに
囲まれると脳幹の働きが低下し
ストレスをおこし
逆に
自然の中で聞く音に
癒されるのですね。
それは人間の認識や認知を超えて
”生”の営みがあるということで
私は
つくづく
人間はやはり動物なんだなーと
思いました。
それは
短絡的に人間は
本能や野生で生きているという事では
なく、
人間は意識の前に
まず”反応”が先にあり
0,5秒後に
意識がそれを説明するという
自然現象の中に
生きているという事です。
人間はあたかも
他の動物とは違い
自分の意識で認識できることだけで
生きているような
錯覚、思いこみ
さらに言うと
そういう傲慢さの中を
生きてしまっているが
そうではなく
他のいきものと同じように
自然の”息・いぶき”の
なか、
自然の”はたらき”の
中に
人間の
誕生と死までの
現象がある・・・と
私は思っているからです。
賢治が描いたように
私とは
私といういう現象で
自然という大いなる働きと
私という意志
わたしという意識の
働きとが
合わせ鏡のように
お互いを写しだしながら
自分=無意識領域を
綴っている。
さらに
もう古典的な心理学者になりましたが
ユングは
神の姿にいちばん近いのは
植物だと書いています。
植物はいくら密集したところでも
お互いの枝がぶつからないように
共生しており
私も
自分の理想の在り方として
一本の”木”を想像し
そこに自分を
希求します。
地から養分を吸い
光合成によって
葉から酸素を放つその循環の中に
しっかりと根をはやし立つ木は
エネルギーの循環(はたらき)の中で
持たれることも
寄りかかることもなく
自律して
立っている。
それは風にそよぐ木
いっぽんの木であり
”はたらき”の
尊さの
真っただ中に
立つ
自己への感傷を
取っ払った無言の
個としての
木です。
いつまで私の生がつづくのか
わからないけれど、
ホメラレモせず
クニモサレズ
思い煩う事もなく
風ように
木のように
そういう風になる自分を
希求してまた
65歳から
また
いきていこーっと
思っています。

『伝心柱マガジン』
58歳の時で
70歳になったら
風が吹き抜けるような文章を
書けるようになりたい
だから毎日が
そこへ至る修行であると思い
毎日書いてきました。
それには
70歳になった時の私が
自我の汚れがとれて
ヒョイヒョイと生きれるように
なること。
つまり自分の中に抵抗がなく
風がふきぬけるように
なっていないと
それは叶いませんから
そういう風になりたいなあーと
思って、
今もそう思っています。
どうしても”風”という言葉が
ついてくるのは、
風の又三郎の
「どっどど どどうど どどうど どどう」
と
青いクルミも
すっぱいかりんも
吹き飛ばして
生きるということ
と
もうひとつ
若いときにたくさん読んだ
井上洋治神父の本の中で
神父は
”神は働き”で
プネウマという
ことばが語られており
それが私の心の中に
焼き付いているからです。
”プネウマ”とはギリシャ語で
”聖霊”を表し
その語源は風が吹くことを
いいます。
神父は”神”は
”風”であり”働き”であると
記されているが
それは人格神…として
一元的に人間を支配する
西洋キリスト教とは
ちっと距離を置いて、
日本人の神父として、
神を問い続けた懊悩のなかから
生まれてきたことばではないかと
私は思っています。
神は息であり風であり
だから聖霊の語源は
”吹く”という動詞から生まれた
プネウマ・風である…と
神父は言う。
そして私も{神」ということばではなく
人間の中にある
「おおいなるもの」として
人間は
”働き”のなかに”在り”
常に
息・エネルギーが通り抜けて
生きているのだと
思っています。
そのエネルギーに
纏いつく
汚れや垢や油汚れが取れた時
その息・エネルギーは
風のように
清々しく
私たちの身体の中を
通り抜けていくだろう・・・と。
そういう自分の姿をめざし、
まだまだそこには
到らず
今だ藪のなかにいますが
この記事も
”風のエッセイ”としました。
そして
自分の中の
自我の汚れや
しこってしまった感情を
そぎ落して
ただただ働きの中に
生きていることが
できますようにと
そこへ自分をどう運んでいくかなーと
日々
考えています。
最近読んだ本の中に
人間の聴覚は
20キロヘルツ以内の音しか
聴くことができないが、
最近の脳の研究では
100キロヘルツ以上の高周波も
脳は
キャッチしており
耳では聞こえないが
人間はそういう
聞こえない音もキャッチし
脳幹を変化させながら
生きている・・・ということです。
だから人工的な音ばかりに
囲まれると脳幹の働きが低下し
ストレスをおこし
逆に
自然の中で聞く音に
癒されるのですね。
それは人間の認識や認知を超えて
”生”の営みがあるということで
私は
つくづく
人間はやはり動物なんだなーと
思いました。
それは
短絡的に人間は
本能や野生で生きているという事では
なく、
人間は意識の前に
まず”反応”が先にあり
0,5秒後に
意識がそれを説明するという
自然現象の中に
生きているという事です。
人間はあたかも
他の動物とは違い
自分の意識で認識できることだけで
生きているような
錯覚、思いこみ
さらに言うと
そういう傲慢さの中を
生きてしまっているが
そうではなく
他のいきものと同じように
自然の”息・いぶき”の
なか、
自然の”はたらき”の
中に
人間の
誕生と死までの
現象がある・・・と
私は思っているからです。
賢治が描いたように
私とは
私といういう現象で
自然という大いなる働きと
私という意志
わたしという意識の
働きとが
合わせ鏡のように
お互いを写しだしながら
自分=無意識領域を
綴っている。
さらに
もう古典的な心理学者になりましたが
ユングは
神の姿にいちばん近いのは
植物だと書いています。
植物はいくら密集したところでも
お互いの枝がぶつからないように
共生しており
私も
自分の理想の在り方として
一本の”木”を想像し
そこに自分を
希求します。
地から養分を吸い
光合成によって
葉から酸素を放つその循環の中に
しっかりと根をはやし立つ木は
エネルギーの循環(はたらき)の中で
持たれることも
寄りかかることもなく
自律して
立っている。
それは風にそよぐ木
いっぽんの木であり
”はたらき”の
尊さの
真っただ中に
立つ
自己への感傷を
取っ払った無言の
個としての
木です。
いつまで私の生がつづくのか
わからないけれど、
ホメラレモせず
クニモサレズ
思い煩う事もなく
風ように
木のように
そういう風になる自分を
希求してまた
65歳から
また
いきていこーっと
思っています。

by denshinbashira
| 2012-04-28 07:51
| 風のエッセイ!
|
Comments(0)

