シリーズ”風のエッセイ” ニーチェの言葉・・・! |
言葉は
時に霊力を孕んでいるし
また自分の水先案内のように
導かれることもある。
カウンセリングでも
ことばではっきりを意識化できたときには
何かが解決している。
しかし・・・・・。
先日ぶらりと本屋に入り
今はやっているという
『ニーチェの言葉」という本を
買ってみた。
わたしはあまりこういう
いわば
お手軽ハウツーものは
買わないのが
まあーいいか読んでみよう・・・と
思い
かいました。
そしてよみました。
稀代の哲人、ニーチェの先見性と
モダンさはさすがです。しかし
読むにつれ
ニーチェが気の毒になってきた。
こんな扱われ方をして・・・・。
冒頭のように
言葉は
私たちの意識の方向性を
指示してくれ
そこにはエネルギーがある。
しかし
その言葉まで辿りつく
或いはその言葉の奥にある
言葉にはならない深い深淵を
こころとからだで
理解しなければ
その言葉のうわっつらのペラペラの事しか
わからない。
つまりニーチェが
自分と格闘しながら、
言葉を厳選しながら
一冊の本の中に書き綴った文脈と
その行間の奥にあるものを
読者が読みこむにつれ
作者と読み手の共同作業の中で
呼応しながら
一体化しながら
そのもっとも本質的な言葉の煌めきへと
辿りついてゆく。
つまり
300ページなりの
文章の山脈を越え通り抜け
登りきったときに
はじめて
一行の言葉の本質まで
辿りつく。
キラキラと輝くその言葉の地平が
眼下にひろがってゆく。
その作業を全部取っ払って
上澄みの言葉だけを
羅列されて
まさかニーチェは
自分の集大成した言葉が
こういう扱いをうけるとは
思ってもみなかっただろうし
おそらく嘆くと
思うよ・・・。
以前ちょっとだけ
知り合いになった人がいて
彼はビジネスのセミナーを
渡り歩き
ハウツー本ばかり読んで
なんとかビジネス的成功を手に入れようとしていた。
しかし
それはちょっと違うなあーと思い
私はさっさと縁を切ってしまったが
その後どうなったかは
わからない。
同じように
カウンセリング渡り鳥という人たちもいて
その人たちは
カウンセリングセミナ―や
カウンセリングルームを
渡り歩き、
適度に心を癒されながらも
最も厳しく自分の内面と向き合う事もなく
ひたすら”癒し”を求めて
放浪する。
更に私が出遭ったカウンセラーの何人かは
カウンセラーでありながら
自分が直面しなければならない
最も厳しいことを
回避してゆき
神秘の方へと行ってしまったが
私から言うと
逃げたなあーと
思いますよ・・・。
ニーチェだって
この言葉を堀りおこすには
何度も
自分の胸を突き刺しただろうし
回避したい心をぐっと踏みつけて
もっとも見たくない現実
顔をそむけたい
己の自我の擬装を
容赦なく
えぐり出したからこそ
そこにたどり着いたのだと
思いますよ。
それに
この本の中のニーチェの語る言葉のなかに
私は異論を唱えたい」箇所も
何か所かあるし・・・ねえ・・・・・。
こういううわっつらの事ばかりを
求めて
渡りあるいていると
一時の気分は
救われるかもしれないが
それだけです。
そうではなく
勇気をもって
自分の本質に斬りこんでゆく。
そうして初めて
自分の自我の心理の擬装の奥に
澄みきった水のように
晴れ渡った空のように
純粋で
無垢の
自分が見えてきます。
そこまで来ると
ニーチェの言葉の深いふかーい
意味と
その価値が
津々と
わかると
おもいますよ・・・・。
私ももう一度
ニーチェを
読んでみようかと
おもいます。
『伝心柱日記』