いじめを受けているお子さんとその両親へその2 |
自分に降りかかってくる様々な問題は
ほとんど
自分で
解決できます。
さらに
人生は
自分が強くなることで
自分が自分の人生を仕切り
決定していくことができます。
今回のいじめもことも
同じです。
いじめられている子供の
もともとその子のなかにある
生命力の強さを
いかにその子自身が
取り戻すかを
親も
大人も
考える必要があると
思いますよ。
まずは、いじめに直面する子供達を
私たちは親として、
雑草のように逞しい子供に
育てたか・・・ということから
問題を掘り起こしてみたいと
思います。
もうずいぶん前のことになりますねえ、
最初に子供が自殺した・・・という報道を聞いたときは
我が耳を疑いました。
子どもが自殺するなんて
当時の私の感性では
考えられなかったからです。
自殺なんて青年や大人の精神の
行きづまり・・だとしか
考えられなかったのに
どうして
こどもがそこまで
追いつめられるのか・・・と
びっくりしました。
その原因が社会や時代や
それを創る
大人の問題として原因があり
さらに現代の
人間の”関係性”の変化など
様々に
要因はあるでしょう。
しかし
もっとも
根本的な問題として
私たち親や大人は
子供たちに
何を教えてきたか
どう生きたら
自分を生かし
生き延びていくには
どうな風に
世の中を捉え
知恵を
どのように働かせて生き延びるかを
教えてきたのでしょうか・・・?
その
教える・・・ということの
根源には
親、或いは
大人たちが
生きる人間のお手本として
彼らにどんな
自分の”姿”を
見せてきたかが
大きく問われると
思います。
そして
親は
自分の子供が生きのびていくには
何を教えたらいいか
何を伝えたらいいか
さらに
現実的に
具体的には
それには
どうするかの方法を
親自身が考え
教えてきたのか・・・・・を
もう
根本的に
考え直す必要があると
思います。
つまり
子どもを
育てるということは
その結果として
自立心の強い
精神的にも強く
生活知に長け
生活力を身に着けるためには
何を
教えたらいいかを
考えないければ
ならないと
思いますよ。
更に
学校とは
なんなのでしょうか・・・ねぇー?
そこは
学問を習うところであり、
現代の学校現実は
生活知まで
学校に依存し
学校側も
依存させてきた
なんともおかしな
親と学校の共依存ですね・・?
そして
学問とは何なのでしょうか?
学問とは
何のために学問を積むのでしょうか?
そういう事を
ぜーんぶ抜け落して
学校そのものが
もう
限界いっぱいに
達しています。
それに
ほんとうに間違っているのは
学校で
学問を教わるということの
すべてを
経済の
手段化してしまったことです。
勉強とは
学歴をつけて
有利な職業につけることでも
いい生活をするための事でも
ありませんし
現実もそうでは
ありません。
そういう勘違いと
思い込みが蔓延した
社会と
日本の教育のありかたを
考え直さないといけませんね。
それに
親の意識の劣化と
まちがった
”学歴信仰”
そして
もう狂っているとしか
思えない
受験・・と云う名の
子ども抑圧装置・・・。
私はもう
受験なんてのを
やめるべきだと
思います。
まあ
考えだしたらもう
問題がありすぎて
解決不能の極限まで
きている。
でもそうも言って
おられないので
心理のメカニズムをとおして
親と子供の関係について
書いてみようと思います。
産まれたての赤ん坊には
いじめる子も
いじめられる子も
いません。
赤ん坊は
完璧な
生命そのものです。
だから
生命線を親に依存してはいますが
その中には強い生命力が
潜んでいます。
だから
彼らは
躊躇するこなく
全身で大声で泣き
大声で笑い
顔中で嫌悪を示します。
嫌なものは
舌で押し出します。
つまり
すべての事象に
素直に
素直に
自分を表現し
発揮します。
こういう人間力を
備えている人間は
とても
強いです。
カウンセリングでは
自分が前進するために
エネルギー獲得することを
ストロークといいます。
あの水泳のときの
ストロークです。
ひとかきしては
前へ進む・・・という意味です。
そして他者から
いいエネルギーを貰うことを
ストロークを貰うといいます。
反対に
自分がエネルギーを失う事を
ディスカウント・・・といいます。
つまり
自分を安売りする
自分を値引きして しまうと
いう事ですね。
では
従順ないい子は
どちらでしょう・・か?
その子はストロークを貰って育っているのか
ディスカウントを受けて
育てられたのか・・・・・・
さあー
どちらでしょうか・・・?
もうお分かりですね
その子は
親によって
ディスカウントを受けているから
いい子なのですよ・・・。
その子本来の攻撃力
反発力・・・を
奪われてしまっているのですね。
では親からストロークを
貰っている子供は
どうなのでしょうか・・・?
ことわっておきますが
ストロークとは
褒める…事では
ありませんよ。
ストロークとは
その子供の
そのままを
親が受け入れているこどもです。
ああしなさい
こうしなさい
と
しょっちゅう
指示されたり
命令されたり
されていない子供です。
しかし放任という事では
ありません。
よほど危険なことや
子どもには
判断がつかないことに関しては
親が指示を出しますが
たいがいの事が
その子供の判断に任されている
子供です。
つまり
親から
圧倒的に
信頼されている
子供です。
いじめる子供も
いじめられる子供も
親から
かなりの
ディスカウントを
うけている
子供達です。
つまり
どちらも
親からディスカウントされ
自分自身も
自分をディカウントし
自分の生命力を
ディスカウントし
全身で生きていないため
とてもエネルギーが弱い
子どもです。
いじめる子供も
ちょっと見は
強そうに見えますが
生命エネルギーが
弱いから
他の子をいじめて
そのエネルギーを
奪うのです。
では
いじめられない子供とは
どういう子供でしょうか・・・・?
ひとつお断りしておきますが
いじめられないからと言って
生命力あふれる子供ではない子供が
います。
それは
傍観する子供です。
この子供も
ディスカウントをうけている
子どもです。
そして
この子供は
もっと親に絶望しています。
だから、他者とは
関わらないのです。
誰とも決して心を許さず
他者を観察して
自分の距離を保ちながら
生きている。
では戻って
いじめられない子供は
常に自分の意志をはっきりと表し
自分の感情や
自分の思いにしたがって
マイペースで
生きている。
親や先生や大人が
あれこれ言っても
そうかなー・・・と
自分の内面に照らして
自分に聞いているこどもです。
こういう独立心(芯)を
持った子供は
現代ではなかなかいないと思います。
むしろ
いじめる子(迫害者)
いじめられる子(被害者)
傍観する子(傍観者)と
みごとに
カープマンの三角形に
分裂してしまっています。
つまり
親や大人に
いじくられすぎた子供
管理されすぎた子供
親の指示命令ばかりに
従って生きてしまう子供
ペットのように
親に密着されすぎた子ども
親からネグレトされた子供
もうほとんどが
自分をディスカウントばかりされて
自分を奪われた子供の
痛ましい世界になってしまいました。
自分の意志に従って生きる子供は
どこへいったのでしょうか・・・ねえ!
マルコやレミや
ポーリーニや
ハイジは
どこへいったのでしょうか・・?
一寸法師も
桃太郎も
金太郎も
どこへいったのでしょうか・・?
そうそう
三年寝太郎もいましたねえ・・。
昔は
大人は
生活を建てるだけで
せいいっぱいでしたから
子どもの世界に
今ほど大人が介入することは
ありませんでした。
むしろ
子どもの世界は
そこに
子どもたちの自治があり
いろんなことを
子ども同士で
解決していました。
だから
子どもどうしで
ストロークを与えあい
ディスカウントされても
自分で解決して
エネルギーを
取り戻していましたから
生命力あふれる子供は
たくさんいいました。
しかし
今は子どもは常に
ディスカウントを受け
大人に囲いこまれた中でしか
いきることができません。
そして
義務として
学校へ行かなければ
ならない、
さらに
塾へと行かされて
自由と時間を奪われた
こどもたち。
可愛そうだなあ・・・・!
本来なら
学校とは
学問を教えるところで
先生とは
学問を
教えてくれる人で
自分達の
”世話”をしてくれる人では
ないんですよ・・・。
先生が
学問を教えることだけに
専念できたら
きっと先生も
救われるし
先生として
専門性を
発揮できるでしょうに・・・。
そして先生も
親と同じように
いろいろな弱さをもった
不完全な人間なんですよ。
まあ
あまり期待したり
要求しないことだと
思いますよ。
しかし
学校も親も
おおきな勘違いをしています。
学問とは
自分の知識,見聞を広め
自分の知性を磨き
教養を身に着け
人間としての人間性を広め
人間力を身に着け
成熟してゆくために
勉強するのです。
本来勉強し
自分がいろいろと成長していくのは
とても楽しいことです。
テストとか
受験とか
勉強がデキル・・・というために
学問をするのでは
ありません。
この勉強がデキル・・のデキルというのは
とてもおかしな言葉です。
勉強ができても
頭がいいとは
限りません。
脳科学的にいうと
スナックのママや
タクシーの運転手さんなどは
とてもあたまがよくなる
職業といわれています。
あたまがいいとは
頭のいろんなフィールドを
隈なく使える・・・ことが
できるようになる・・と
いう事です。
だからいろんな我儘なお客に
付き合ったり
いろんな場所へと
車を飛ばす運転手さんなどは
自然に頭がよくなると
いいます。
始めから答えがあるものを
いくら勉強しても
頭はよくならない。
答えのないものの
答えをさがしだすことが
凄んだ・・・と
こどもに教えなくてはねえ・・・。
あゝ書きだしたら
この国の教育は
もう
勘違いと
まちがった思い込みだらけですね。
もしご自分の子供が
いじめられていたら
まず
親は
その子供の
本来の生命力や
攻撃力
防衛力
そして
一番大切な
自力でいきる逞しさを
親が奪っていないかどうかを
検証してください。
親がいつも
指示命令を出して
干渉していないか。
親が世間的な常識で
その子を縛っていないか・・。
その子に
いい子
いい人になるように
言っていないかどうか・・・。
いい子になる必要も
いい人になる必要も
ありませんよ。、
世の中はきれいごとでは
生きていけません。
やられたら
倍返しにするくらいの
攻撃力も持っているくらいで
ちょうどいいです。
人間や自分が
ヤラレそうな人間には
手をだしません。
自分とどっこいどっこいか
自分より
弱い・・と見ぬくと
いじめにかかるのですからね。
そして
これはとても大切なことですが
その子供を
神経質な
傷つきやすい
気の弱い子供に仕立てていないどうか・・・・。
傷つきやすい
感受性が豊か・・・というと
いかにも
いいように聞こえますが
それは
親の顔色を窺わせている
証拠でもあるのですよ・・・。
その子供が
びくびくして生きてるってことです。
親が子供の心によけいな
不安を与えているから
神経が過剰に反応するように
なってしまっている。
そうして
いつも
自分を不安にさらしている子供は
その生命力を
発揮できないという事ですぞ!
図太く
ずうずうしいくらいでいいです。
鈍感で
傷つかない・・・で
いいです
その子供が
その子らしい感情を発揮して
生きているかどうか・・・。
その子のその子らしさが
そのまま
受け入れられているかどうか。
その子の欲求が
親の都合で
捻じ曲げられていないかどうか。
まあ
書ききれないけど
子どもがいじめにあっているなら
まず
親子関係を
検証し
そして
その子が自分で解決できるように
自分の在り方を
修正してください。
親はそれまでの自分の
親としての在り方
そして
子どもとの関係を
総洗いして
子どもが自立するために
自分は何を為すべきかを
考えることだと
思います。
人間は
優しさや、思いやりがあると同時に
攻撃力や反撃力も
同時に持っています。
素直であると同時に
自我の強さも
批判力も
持っています。
そんなものすべてが
自分であり
その全体で生きだしたら
強いのなんのって・・・・!!
子どもも大人と同じように
”自分”を生きています。
その子供の魂を
信頼しきることこそ
彼らが自分で強く生きるようになる
ピカ一の
技・術だと
おもいます。
『伝心柱マガジン』