シリーズ・何を手放して何を手に入れるか・・映画「小さな学校」 |
村上浩康監督と能勢広カメラマンが
来てくださり、
いろいろなお話をしました。
私自身はお二人と話しながら
若い青年の人間観や
カメラの視座に
いろいろな新鮮な驚きや
納得、そして
これからどんどん開花していくと
思われるその才能の可能性や
期待などに
脳がどんどん刺激されて
いきました。
そういえば
映画「流・ながれ」の目線の位置は
小津安二郎監督の
目線と静寂のなかにあったものと
よく似ているなあーと
思いだしました。
モチーフをあれこれ
いじくって
自分の自我のほうに
手繰り寄せるのではなく
対象のなかにある
その自然性からくる
様々な人間の機微にカメラが静かに
寄り添っている。
ことさら何をいう訳でもなく
働きかけるでもない
その沈黙と静寂こそが
対象の全体を包み込み
何ひとつとして
欠けたものがない
人間への肯定となっている。
つまり映画や映像が
私たちを襲ってこないのである。
だから
それを見ているわたしたちには
私たちそのままが
映像の中の人々の横に
そのまま立ち、坐っているかのような
共感が
流れ出す。
これはスゴイことなんだけれど・・・・!!
その映像のなかの人々は
ごく自然に
ごく普通に
ごく
あたりまえに
私たちと同じであり
映像のなかの人々と自分は
もしかしたら
すぐ隣に彼らと
やぁやぁと挨拶をかわして
なんの違和感もなく
一緒にそこに
いるかもしれない。
そこには
興奮するようなドラマの展開は
ないし
ためになるような
メッセージもないかもしれないけれど
しかし
その映像と同じ地平を生きている
自分がいて
その自分こそが
もっとも
リアリティー溢れる
”今”を
生きている自分である。
映画を見ている自分のリアリティーが
映画の中の人々の
リアリティーを一周して返送され
自分のてのひらに戻ってきては
かの人々と自分を
やさしい、
やわらかい生の共感で
包み込んで
くれる。
さて
このたび
村上監督からいただいた
「小さな学校」という
未発表の映画がまた
素晴らしいです!
神奈川県、藤野町の
生徒が5人先生が9人という
ちいさな学校が
閉校される前の
最後の1年を撮ったものです。
特に子供たちは
そのまんまの子供達が
そのまんま
写っている。
唐突ですが・・・(いつもそうですが・・・笑)
自分のなかに欠落が強い人間ほど
他者への働きが強い!
しかし
この映画は
どうだろう・・・!
子供の歩いている道を
同じようにカメラの視線は
ただ一緒に歩いている。
それは子どもだからという事ではなく
映画の中の大人も子供も
「今日は暑いねー・・・」というと
「むすねぇ・・・」と
返すような
何気ない会話のように
自然で普通で
でも
そこには
安心と共感のやさしさがある。
また唐突ですが
私はこの映画はいつも
自分の傍に置いておきたいなあーと
思う映画を
1本だけ持っている。
それは「八月の鯨」という映画
正確に言うと
そのビデオを大切に大切に
持っている。
ふたりのお婆さんの話ですが
人間が
いいんですよ。
こんなお婆さんになりたいなあーと
ずーっと
あこがれています。
この「小さな学校」も
ああーこの子供たちのように
いきていたいなあーと
思います。
ずーっと
傍において
一緒に生きたいです。
この映画も「流・ながれ」とおなじように
いや
「流・ながれ」よりさら
よけいなものは
そぎ落とされて
ただ淡々と映像がながれています。
内容については未発表のために
言及しませんが、
発表されたらすぐに
皆様におつたえします。
先ほども書きましたが
自分のなかに欠落が強い人間ほど
他者への働きが強く
特にメディアの世界は
なにかそういうことが
解決されていないため
これでもか、
これでもか・・と
人間の病みの方へと
比重がかかっている感じがします。
おそらく無意識の世界が
そうなっているのだと思いますが
私はそういう強迫神経が溢れる
今の世の中から
時々逃げ出したくなります。
しかし
人間のインナーチャイルドは
もともと
素直で純粋でやさしいです。
さらにいうと
自分の等身大で生きてる人は
やさしいです。
自分の病み(闇)から
脱出した
インナーチャイルドは
他者に求めすぎないですよ。
ただ
自分の自然性をそのまま生きている。
昨日のブログの
・消費化社会がその”生産の自己目的化”という
『産業主義的な狂気」から脱出し
情報化社会が「物質主義」的な、
したがって外部収奪的であるほかのない
価値観と幸福のイメージからの脱出・・・と
という事のその先に
私は人間がそれぞれの
インナーチャイルドを発見することが
未来へとつながると
思っています。
つまり
そういう覚醒が
人々のなかに起きたとき
人間はお互いに
やさしい共感と共振をし始めると
私はおもっているのです。
その時
「産業主義的な狂気」からの脱出
そして
「物質主義」に侵されて
常に外部から収奪が繰り返されることによってしか
満たされない
価値観と幸福のイメージ・・・からの
脱出が
可能になるのではないかと
思っています。
このことは少しずつ
書いて行こうとおもっています。
でも
かなり
むずかしいです・・・・、できるかなあ・・・?
ちなみに
村上監督の中にも
能勢カメラマンの中にも
そして映画「流・ながれ」の中の
吉江さんの中にも
斉藤先生の中にも
ちゃーんと
インナーチャイルドが
生き生きと
いきている・・・と
思います。
きっと
皆さんの中にも
ちゃーんと
いるはずです。
それがどういうことなのかを
少しずつ
書いて行こうと
おもっています。
『伝心柱マガジン』