小津安二郎監督「東京物語」・と消費されない感動とは! |
英国映画協会発行の
「サイト・アンド・サウンド」誌が、
世界の映画監督三百五十八人が
投票で決める最も優れた映画に、
小津安二郎監督の「東京物語」が選ばれた。
批評家ら八百四十六人による投票でも
三位だったと
ありました。
やっぱりなあーと
思います。
実はちょっと書きたいなあと
思っていたことがあり
その時に小津監督の「東京物語」を
例にだそうかあなーと
温めていたのです。
それは
人間が”感動する”という事の
心理メカニズムについて
書こうとしていたもので
・感動はなぜ必要か
しかし
・感動はなぜ
消費されていくか・・・という事を
書こうと思っていたのです。
でも、ちょうどおりあし悪く
オリンピックと
重なってしまい
なんか、オリンピックを否定するように
とられてもなあ・・と
書くのを控えていたのです。
しかし、今日ニュースの記事を読み
テレビでアナウンサーが
はあー黒沢監督ではないんですねえー・・・と
いぶかっていたのを見て
やっぱ
書くかあーと
思いました。
私たちは毎日を生きていますが
時にそれはマンネリ化し
更に
私たちの自我に
日々の中でこびりつく垢や汚れは
時に感動する・・という
非日常のできごとで
その汚れを浄化されます。
垢や汚れやストレスで
黒ずんでしまう自分の心を
高揚させ
日ごろの人間関係の中で
ひずみがちなこころが
感動という澄んだ水であらわれると
無意識の底に在る
人間の
どんな人間のなかにもある
高次で純粋な
こころの核みたいなものが
感動で洗われて
顔をだしてきます。
そして人々は
元気をもらい
再び
私たちはシャバを生きるエネルぎーを
取り戻します。
だから、大人には
感動の世界が必要です。
しかし
ことわっておきますが
大人はそうですが
子供は
違います。
子どもはいつも感動の連続のなかに
いきていますから。
ですが
気をつけなければならないのは
ともすると私たちは
感動を消費していきます。
今回のオリンピックなどは
そのいい例で
一流選手の素晴らしい演技や技に
感動し
また
さらに恐ろしいことは
金メダル・・という
勝つことのトップを取るということは
自分達のなかにある
劣等意識や
競争意識や
対抗意識が
刺激され
それが満たされていきます。
国によっては
それを煽動することで
国民の
優越意識を
捏造していきます。
そして現代の消費社会においては
感動すらも
消費としての価値を与えられ
社会の中に溜まった
フラストレーションの
ガス抜きに
利用されていきます。
社会のなかに充満する
フラストレーションを
ガス抜きすることの
最も”悪”は
戦争です。
感動によって
人間が興奮し
高揚し
そして人間のコンプレックスを
刺激して
反転させた優越感を
最大限に利用したのが
ヒットラーのナチズムです。
ご存知だと思いますが
彼は最初
社会改革や福祉や社会正義掲げて
登場してきました。
巧みな演説で衆目を、国民を
感動させ
最後に人種の純粋性や正当性・・を
持ち出して
ドイツファシズムへと
引っ張っていきました。
この手法はいまだに
独裁国家に使われていますね。
さて
では
感動する・・という事は
どういうことなのでしょうか・・・。
さらに
消費されたり
国家の煽動や
宣伝に使われない
感動とは
どんなものなのでしょうか?
たとえばオリンピックなどは
そこで競技したり
演じているのは
選ばれたひとたちであり
自分とはかなりかけ離れている
優れた人たちです。
更にアート作品なども
感動?するのかしないのか
分かりませんが
なにやら特別な才能を持った
とんがった人々・・?の
作品で
まあ率直に言いますと
私は人々がアートに感動する・・というのを
かなり
うさんくさいなあーと
思ってみてますが、
そういうものは
その意外性に
驚いたたり
興奮したり
オリンピックなどは
”国”というくくりの中で
応援するよという熱狂に
国民が
選手たちや
彼らの獲得したメダルを通して
一体感を感じたりして
そこに
自分を投影して
なにか
いっときの
心の高揚や興奮を
味わいます。
マスコミも連日それを
あおりますが
しかし
その熱狂も
時間と共に薄れ
やがて忘れられていきます。
つまり
消費されていくのですね。
そうして人々は
日常的にため込んだ
汚れや垢を
カタルシスして
ふたたびシャバの現実へと
帰っていきます。
それは映画やテレビなどの映像においても
同じです。
非日常的な物語や
現実の不安をデフォルメし
そういう興奮やエクスタシーを
味わい、
いっときの異世界で浮遊したのち
現実へと戻っていきます。
でもその感動って
ホンモノでしょうかねえ・・・・?
しかし
ときに
とても優れた人々による
消費されない感動が
あります。
それは
どんな感動でしょうか?
つまり
小津安二郎監督の映画が
なぜ
素晴らしいかのという根拠は
そこにあると
私は考えています。
それは
私たちの個人の生活のなかに
ずーっとながれている通奏低音のように
重厚なものとでも
言いましょうか、
ずーっと底流にながれている
生きていることのなかから生まれる
普遍的な”実感”を取り出して
描いているからだと
思います。
誰もの心の底に
小川のように
涼やかに流れている
人間への信頼や
日々の現実の生活の
”実相”に
吹き抜ける風のような
自然な共感。
日々のなかに生まれる
ささやかに感情の機微
大げさではないけれど
自分の孤独のなかに
かみしめている
喜びや
悲しみや
苦さや
そして
明日もがんばろう・・という
ごく普通なものが
客観的に取り出されてあります。
それは映像の中の人間も
見ている人間も
そのまんまでいいよ・・という
メッセージのなかに
自分も他者もが
丸ごと綴られている時の
静かで深い共感の
感動です。
自分と言う
ありふれた存在の
延長線上にある
感動です。
まなざしが向けられるのは
国家でも
社会でも
特別な人でもない
個々の人の生きることであり
すべての人の
いきることでも
ある。
大仰な感情の
興奮も
高揚も
すっとするカタルシスも
ないけれど
映画や映像やアートのなかに
ちゃんと
人間が存在している。
いきるってことは
こんなことなんだろう・・・と。
そしてその感動は
消費されません。
自分が消費されない限り
そこに在る感動です。
感動というより
存在のたしかなものといった方が
いいかもしれませんね。
そして
私たちは
ほんとうは
その確かなものを手掛かりに
日々
生きているはずなんですよ。
それは
そこに
自分がいる・・・っていう
証しでもある。
でもねえ
こういう感動を作品にするっていうのは
ものすごく難しいんです。
人間はどうしても
色気がでてしまい
相手の不意を突くような表現や
感情を揺すぶって
感情の中のストレス物質を
カタルシスするような
劇的なしげきをしたほうが
分かりやすいし
受け入れてもらえるからね。
そういう色気や大衆迎合を
いかに払拭して
”私”(自分)という人間の日常の連続が
映画とか作品という
非日常に出遭い、しかし
それが
そこからまた
自分の日常へと
連続がバトンされる・・・という
感動です。
そういう感動を手渡せるのは
小津安二郎監督のなかにある
人間へのまなざしが
確かだったからだと
思います。
何度見ても
色あせない
いつも
一緒に生きている。
さすがに世界の映画監督たちは
分かっているんですね。
そういう映画を創ることが
いかに難しく
逆に
だからこそ
そこに監督たちの
あこがれが
あるのでしょう。
ちなみに
先日ご紹介した映画
「小さな学校」も
そんな映画でした。
淡々と綴られていく
映像のなかの子供達は
ごく普通に
そのままの子供であり
なにひとつ強調されることもない
かれらの
日常が
無声映画のように
綴られてありました。
いずれ発表されたあかつきには
きっと
ご紹介いたしますから
たのしみにしていて
ください。
最後に私は
かんたんに感動なんかしてたまるか・・・という
へそ曲がりの人間です・・・・笑!
安易に自分の感情を
もっていかれて
たまるものか・・・と
思っています。
わたしゃー
重いんだ・・・と
思っています・・・。
そのことは
裏を返すと
さまざまに
ぬきさしいならない
現実の不条理のなかを
生き抜いている
普通の人々が
スゴイのであり
普通の日常のなかに
普通に
生きている人間こそが
すごいなーと
思います。
それこそが
感動です

また咲き始めたクレマティス・・・??
芸術家たちも、真の意味で自分自身に依拠することが、ああ難しいなあと、苦労しているのかもしれませんね?

