メシア症候群をどうするか! |
メシア、つまり救世主的病気・・・つまりは
助けたがり屋さんという事です。
宮沢賢治などはその典型だと
思います。
※詳しく拙著ブログ「宮沢賢治」をお読みください。
自分のことをほおっておいても
他人を助けずには
いられない。
さらにおせっかい屋さんなんかも
そうですね。
他人の不備が気になって
しょうがない人です。
ほおっておけばよいのに
すぐ手をだしてしまう。
ボランティアが好きな人も
そうですね。
各種”先生”になりたがる人も
そうですね。
この症候群も
度をすぎなければ
適度に
人間関係をなめらかにすることも
あり、
他人へ関わることをしない人より
もーちーと
人間的な温かさがあります。
こう書いているわたしも
以前はメシア症候群でした・・・・笑い!
今の私にも
その名残が
あるでしょ・・・・苦笑!
この人たちは
意識では
ほんとうに
他人を助けたいと思っているのですが、
無意識のところにある
自分の危機意識が
他者や社会に投影して
本当は
自分を助けなければ(解決しなければ)ならないのに
それを回避して
他人を助けることで
自分も助かったような錯覚を
持つのです。
また自分が
他人の”役に立つ人間”として
受けいれられたいという
願望を持っており
自分が
他人の役に立つことでしか
自己存在を感じることができない。
さらに
厳しいことをいうと
自分より
以下の人間ばかりを
相手に選ぶ。
つまり
相手は自分の補佐を必要とする人間で
意識の下には
相手を見下しているその人自身が
います。
人間はいかなる人間も
自力で生きる力と能力を
持っています。
それはその人間が困難に直面すれば
するほど
能力もパワーもついて行きます。
しかし
メシア症候群の人は
それを信頼できないから
つい
手を出して助けてしまう。
つまり根本的に
自分も信頼できないから
そのダミー(代用)として
つい手を出してしますのです。
宮沢賢治は
自分が助けなければならない存在・・として
農民を設定し
自らも農民となるべく
羅須地人協会を作り
農民の世界へと入っていきましたが
そこで
彼は大きな挫折をします。
助けようとした相手である
農民から見れば
彼の方が
世間を何も知らない金持ちの
お坊ちゃまの
道楽で
農民になろうとしている。
もうここで賢治が
農民を下に見ていることに
なるでしょ。
更に
彼は自分の栽培した野菜を
引き売りした時
農民の冷めた敵意の眼に
さらされて、
始めて
自分の傲慢に気づきます。
賢治はそこで
はじめて
人間の現実の實相に
直面するのですね。
だから
その後の彼はもう
ストイックに
自分を求道者のように
追いつめて
行きました。
人間は、自分の目を通してしか
他者のことを
理解できません。
そこには
当然
自分の目のくもりが
あるはずです。
自分の目のくもりを
自覚していないひとのお節介ほど
やっかなものは
アリマセンヨ。
ほんとうに人を助けたいなら
その人の生命力や
自力で生きる力を
信じて
軽々しく
手をさだないことだと
思います。
逆に手をだし
助けることにより
その人の自力で生きる力
自力で解決する力を
奪ってしまいかねません。
『災難に遭うなら
遭うがよろしい・・・。』と言った良寛の方が
悟りも慧眼も深いです。
最後に
メシア症候群から脱出するには
他人の事は
他人に任せて
自分は他者を助けない
手を出さない・・・という
決意と自覚を
することです。
そして手を出しそうになったら
ぐっと我慢する!
それしかありません。
メシア症候群も
お節介も
その深層心理にあるのは
依存です。
それも自分より
格下の人間に対する
優越した
依存です。
メシア症候群の人の心理の底には
とても温かい温度もあります。
もし
メシア症候群の人が
他者を突き放すことが
出来るようになり
さらに
遠くから見守ることができるようになると
それはとてもいい
人間の成熟と
なります。
『伝心柱マガジン』