2012年 08月 20日
すごい人生だったね! |
北海道で泊まったホテルのラウンジに
尊敬する大詩人の本があった。
それは詩人と女性書家の共著の本で
詩人はその書家との出会いを
運命的とも書いてあった。
大詩人を感動させ運命的と言わせたその女性書家は
ダウン症の障害を持つ女性で
その本に書かれてある書は
確かにおおらかな生命力とパワーがあり
しかも、属性や媚が全く見られない
ダイナミズムがある。
ただ私は彼女との出会いを書いた
大詩人のたった1行に
引っかかってしまった。
それは人間には
根本脳と情動脳と知性脳があり
書家はその障害があるが故に
根本脳や情動脳の弱い働きのために
かえって美しいこころのままでいられる・・・というような
ことが書かれてあった。
その美しいこころに大詩人は感動したと・・・。
チャ―ンとメモしておけば良かったのだが
旅先でのことでもあり
まあーいいか・・としたのだが、
帰ってきてから
やっぱり違うなあ・・・と
思う。
違うなあーというのは
大詩人は大詩人の人間観で
それはそれでいいのです。
しかし
私が違うなあ・・・と思うのは
私の人間観であり
それぞれのまなざしが
違うところを見ているだけの
話かもしれない。
ちがうなあーと思うのは
大詩人はあのタオの英語訳や
詩人自身の言葉を
誰に向かって語ったのだろう・・と
いうことで
おそらく
生きることに苦しみ
もがいている自分と同じような
人々へと
語った・・・と
私は思っていた・・・・その本を
見るまでは・・・・。
しかし
彼はダウン症という障害を持っているが故に
自我の汚れや
俗的なヘドロをため込んでいない
才能あふれるこの純真な書家にあい
感動したのだというなら
明らかに
私のまなざしとは
異なる。
美しい心とは
障害とか健常とかなんか
関係ない。
あるとすれば
傷の深い人間ほど
安直に他者にそれを
見せられないってことですよ
詩人!
闇が深ければ深いほどに
ね。
カウンセリングを通して
私が見てきた世界は
ごく
普通に生きている人々が
いかに凄いか・・と云う
感嘆がある。
自分が棲む世俗の海の中で
心理という言葉すら知らず
心理の二重性(意識と無意識の二重性)に
悩まされ
自分で自分をどうすることもかなわず
自分の中のインナーチャイルドに
出遭う事もなく
自我の汚れや不毛なる社会の無明の中を
運命や宿命に従って
生きてきた人への深い共感である。
自分に纏わりつく
感情や欲望の汚れの中を
自己を嫌悪するなか
それを引き受けながら
懸命に生き
ただただ凡庸に
無言に生きてきた人々こそ
スゴイ!と
私は思います。
ほんとうに
苦しかっただろうなーと
思い
そのすさまじさにこそに
私は感動し
頭を垂れたい!
カウンセリングの”カ”の字もしらず
誰にも心の闇を明かせず
悩み苦しみもがいて
それでも最後まで生きた、
普通のひとびとこそ
すばらしいと
私は思いますよ。
どんなに懸命に生きても
心は
汚れ
澱むものである。
大詩人はそれを
理解したからこそ
あのタオの詩を書いたのだと
思うけど
ひとは
それぞれ
違うからね
なんとも
言えない・・・。
現代アートのギャラリーを
やっていた時
障害を持つ人々の
溢れる才能や
そのプリミティヴなパワーには
大いに感動するし
尊敬もする・・・しかし
私は決してそういう人々の作品を
扱わなかった。
その理由は
この娑婆の中で
自我のヘドロの闇にもがきながら
出口を捜している作家の方が
格段に闇は深く
凄みがあると
感じたからです。
人生の苦さや
塩辛さの層が重っていてこそ
オモシロイからねえ・・。
カウンセリングでは
インナーチャイルドを
共依存の沼の中から
脱出させ、すくいだします。
当然の
沼地に残った親に対しての
批判や裁断や突き離しがなければ
インナーチャイルドは救えないし
自他の分離
親との分離もできません。
だから
自分のこころの中にしこっている
幼児期から成長期にかけての
親のイメージを徹底的に洗いだし
検証し
退治します。
それは自分が自立するための
通過儀礼として必要なことでもあります。
しかし
間違えていけないことは
親たちも
深く傷ついている
犠牲者であるということです。
その親たちも
自分の親たちから
苦しいバトンを渡されており
いうなれば
親達こそ
出口のない迷路を
不安を抱えて生きてきた人間です。
その解決できない苦しみを
抱えて生きた人が
どんなにすごいか・・・と
私は思いますよ。
自分の中のインナーチャイルドに
めざめ
気づいた人々は
共依存や自立が出来た時こそ
自分の親たちに対して
深い理解
深い共感
そして深い慈しみのまなざしを
もってほしいと
思います。
だれにも知られることなく
無名の中を
ひたむきに生きたあなたこそ
大変で
スゴイ人生だったね・・・と。

北海道紫竹ガーデンの花です。
しばらくはこの庭園の花たちの登場です。
]『伝心柱マガジン』
尊敬する大詩人の本があった。
それは詩人と女性書家の共著の本で
詩人はその書家との出会いを
運命的とも書いてあった。
大詩人を感動させ運命的と言わせたその女性書家は
ダウン症の障害を持つ女性で
その本に書かれてある書は
確かにおおらかな生命力とパワーがあり
しかも、属性や媚が全く見られない
ダイナミズムがある。
ただ私は彼女との出会いを書いた
大詩人のたった1行に
引っかかってしまった。
それは人間には
根本脳と情動脳と知性脳があり
書家はその障害があるが故に
根本脳や情動脳の弱い働きのために
かえって美しいこころのままでいられる・・・というような
ことが書かれてあった。
その美しいこころに大詩人は感動したと・・・。
チャ―ンとメモしておけば良かったのだが
旅先でのことでもあり
まあーいいか・・としたのだが、
帰ってきてから
やっぱり違うなあ・・・と
思う。
違うなあーというのは
大詩人は大詩人の人間観で
それはそれでいいのです。
しかし
私が違うなあ・・・と思うのは
私の人間観であり
それぞれのまなざしが
違うところを見ているだけの
話かもしれない。
ちがうなあーと思うのは
大詩人はあのタオの英語訳や
詩人自身の言葉を
誰に向かって語ったのだろう・・と
いうことで
おそらく
生きることに苦しみ
もがいている自分と同じような
人々へと
語った・・・と
私は思っていた・・・・その本を
見るまでは・・・・。
しかし
彼はダウン症という障害を持っているが故に
自我の汚れや
俗的なヘドロをため込んでいない
才能あふれるこの純真な書家にあい
感動したのだというなら
明らかに
私のまなざしとは
異なる。
美しい心とは
障害とか健常とかなんか
関係ない。
あるとすれば
傷の深い人間ほど
安直に他者にそれを
見せられないってことですよ
詩人!
闇が深ければ深いほどに
ね。
カウンセリングを通して
私が見てきた世界は
ごく
普通に生きている人々が
いかに凄いか・・と云う
感嘆がある。
自分が棲む世俗の海の中で
心理という言葉すら知らず
心理の二重性(意識と無意識の二重性)に
悩まされ
自分で自分をどうすることもかなわず
自分の中のインナーチャイルドに
出遭う事もなく
自我の汚れや不毛なる社会の無明の中を
運命や宿命に従って
生きてきた人への深い共感である。
自分に纏わりつく
感情や欲望の汚れの中を
自己を嫌悪するなか
それを引き受けながら
懸命に生き
ただただ凡庸に
無言に生きてきた人々こそ
スゴイ!と
私は思います。
ほんとうに
苦しかっただろうなーと
思い
そのすさまじさにこそに
私は感動し
頭を垂れたい!
カウンセリングの”カ”の字もしらず
誰にも心の闇を明かせず
悩み苦しみもがいて
それでも最後まで生きた、
普通のひとびとこそ
すばらしいと
私は思いますよ。
どんなに懸命に生きても
心は
汚れ
澱むものである。
大詩人はそれを
理解したからこそ
あのタオの詩を書いたのだと
思うけど
ひとは
それぞれ
違うからね
なんとも
言えない・・・。
現代アートのギャラリーを
やっていた時
障害を持つ人々の
溢れる才能や
そのプリミティヴなパワーには
大いに感動するし
尊敬もする・・・しかし
私は決してそういう人々の作品を
扱わなかった。
その理由は
この娑婆の中で
自我のヘドロの闇にもがきながら
出口を捜している作家の方が
格段に闇は深く
凄みがあると
感じたからです。
人生の苦さや
塩辛さの層が重っていてこそ
オモシロイからねえ・・。
カウンセリングでは
インナーチャイルドを
共依存の沼の中から
脱出させ、すくいだします。
当然の
沼地に残った親に対しての
批判や裁断や突き離しがなければ
インナーチャイルドは救えないし
自他の分離
親との分離もできません。
だから
自分のこころの中にしこっている
幼児期から成長期にかけての
親のイメージを徹底的に洗いだし
検証し
退治します。
それは自分が自立するための
通過儀礼として必要なことでもあります。
しかし
間違えていけないことは
親たちも
深く傷ついている
犠牲者であるということです。
その親たちも
自分の親たちから
苦しいバトンを渡されており
いうなれば
親達こそ
出口のない迷路を
不安を抱えて生きてきた人間です。
その解決できない苦しみを
抱えて生きた人が
どんなにすごいか・・・と
私は思いますよ。
自分の中のインナーチャイルドに
めざめ
気づいた人々は
共依存や自立が出来た時こそ
自分の親たちに対して
深い理解
深い共感
そして深い慈しみのまなざしを
もってほしいと
思います。
だれにも知られることなく
無名の中を
ひたむきに生きたあなたこそ
大変で
スゴイ人生だったね・・・と。

北海道紫竹ガーデンの花です。
しばらくはこの庭園の花たちの登場です。
by denshinbashira
| 2012-08-20 14:53
| 何を手に入れるか
|
Comments(3)
河合隼雄先生の本の中に「鶴見(俊輔)先生の言葉にはイメージを喚起する力があり・・・」と、壮絶な子供時代を語る鶴見先生が、ご自分のことだけではなくて、自分をとりまく世界、世代をさかのぼってまでのそれを見ていることが、伝わってくる箇所がありました。最近、ふとそれを思い出し、このような「自分をとりまく世界」がちゃんと見えるということが、客観性の獲得ということなのかな~と、考えています。
0
a'kee 様、そうですね。自分を取り巻く世界があちらからもこちらからも
見えるという事ですね。
見えるという事ですね。
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。

