2012年 09月 04日
シリーズ・人間は信頼するに足る・無意識のさらに奥の奥のほうに! |
朝、夜が明けるかあけない、
まだ外が薄暗い頃に起き出して
ひとりで本を読みながら
考える。
まったく人の気配がしない中で
自分が
一本のかすかなろうそくの灯りのように
そこにいる。
人間は、ほんとうは
眼に見えない世界(無意識)の方に真実がある・・と
思うが、
しかし
最近わたしは、
その
眼に見えない世界のもっと奥に
もうひとつ
もっとも本質的な
”ほんとう”の世界があると
思っている。
そこに在るのは、
裸でうずくまっている
ちいさな
ちいさな、魂だけになっている
人間で、
そこに辿りつくには
たくさんの着込んだ心の衣を
脱いでいかないと
行けない。
でも、
そこに辿りつくと
やさしい、やさしい眼差しが
自分をも他者をも
包み込んでくれる、
そういう
力や
抵抗や
屈折がない
ただただひたすらに
やわらかい
世界です。
そして
誰もがその
遠い世界を
もっている。
そこは
意識の世界からは
ほど遠い。
〇
我が家のトイレには
ターシャ・チューダーさんのカレンダーが
架けてある。
トイレに入り
そのカレンダーの中のターシャさんを
見るたびに
「ああ、この人は閉じているなあー」と
思う。
多くの人々が思い込んでいるような人ではなく
もしかしたら、彼女は
人間があまり好きではなかったかも
しれない。
そして
ちょっと気難しく
離人的な人のようにも
思える。
彼女はひたすら閉じて
世の中一般の他者の介入を
排したからこそ
彼女の中は
みごとに充実していったのだとも
思う。
こういう風にして
このひとは
自分を守ったんだ・・・・と
思います。
そして
最後にターシャさんは
あの世界まで
辿りついたのだろうか・・・・。
〇
朝、テレビをみていると
北野タケシ監督が
今年も
ベネチィア映画祭に出かけていった・・・と
放送していました。
タケシさんも
私には
閉じているようにみえるひとです。
その時ふっと
この人は
いつまでベネチィアに
行くのだろうと
思った。
私はタケシさんが
大好きだし
才能も
格段の知力も
あるいひとだと
思います。
でも
私はそう思いました。
いつまでベネチィアに行くのだろう・・・?という
私の奥には
彼がそんなものなどに
眼もくれなくなった時こそが
彼の
”ほんとうの世界”を
手繰りあてた時だろうと
思っているわたしが
いました。
つまり、
タケシさんにとって
最も本質的な
自分の世界との
遭遇は
その時のような・・・・。
そこで
北野タケシ監督が
何を
綴りだすか・・。
〇
最後に
映画「流・ながれ」のなかで
”カワラノギク”に
自分の沈黙の世界をそそいだ
吉江啓蔵さんのなかにも
わたしはそれを
みます。
〇
それは
誰にもある世界です。
自分の奥の、奥の、奥のほうに
ひっそりとある、
誰もしらない
自分だけの自分の世界
自分の魂の世界
です。
まだ外が薄暗い頃に起き出して
ひとりで本を読みながら
考える。
まったく人の気配がしない中で
自分が
一本のかすかなろうそくの灯りのように
そこにいる。
人間は、ほんとうは
眼に見えない世界(無意識)の方に真実がある・・と
思うが、
しかし
最近わたしは、
その
眼に見えない世界のもっと奥に
もうひとつ
もっとも本質的な
”ほんとう”の世界があると
思っている。
そこに在るのは、
裸でうずくまっている
ちいさな
ちいさな、魂だけになっている
人間で、
そこに辿りつくには
たくさんの着込んだ心の衣を
脱いでいかないと
行けない。
でも、
そこに辿りつくと
やさしい、やさしい眼差しが
自分をも他者をも
包み込んでくれる、
そういう
力や
抵抗や
屈折がない
ただただひたすらに
やわらかい
世界です。
そして
誰もがその
遠い世界を
もっている。
そこは
意識の世界からは
ほど遠い。
〇
我が家のトイレには
ターシャ・チューダーさんのカレンダーが
架けてある。
トイレに入り
そのカレンダーの中のターシャさんを
見るたびに
「ああ、この人は閉じているなあー」と
思う。
多くの人々が思い込んでいるような人ではなく
もしかしたら、彼女は
人間があまり好きではなかったかも
しれない。
そして
ちょっと気難しく
離人的な人のようにも
思える。
彼女はひたすら閉じて
世の中一般の他者の介入を
排したからこそ
彼女の中は
みごとに充実していったのだとも
思う。
こういう風にして
このひとは
自分を守ったんだ・・・・と
思います。
そして
最後にターシャさんは
あの世界まで
辿りついたのだろうか・・・・。
〇
朝、テレビをみていると
北野タケシ監督が
今年も
ベネチィア映画祭に出かけていった・・・と
放送していました。
タケシさんも
私には
閉じているようにみえるひとです。
その時ふっと
この人は
いつまでベネチィアに
行くのだろうと
思った。
私はタケシさんが
大好きだし
才能も
格段の知力も
あるいひとだと
思います。
でも
私はそう思いました。
いつまでベネチィアに行くのだろう・・・?という
私の奥には
彼がそんなものなどに
眼もくれなくなった時こそが
彼の
”ほんとうの世界”を
手繰りあてた時だろうと
思っているわたしが
いました。
つまり、
タケシさんにとって
最も本質的な
自分の世界との
遭遇は
その時のような・・・・。
そこで
北野タケシ監督が
何を
綴りだすか・・。
〇
最後に
映画「流・ながれ」のなかで
”カワラノギク”に
自分の沈黙の世界をそそいだ
吉江啓蔵さんのなかにも
わたしはそれを
みます。
〇
それは
誰にもある世界です。
自分の奥の、奥の、奥のほうに
ひっそりとある、
誰もしらない
自分だけの自分の世界
自分の魂の世界
です。
by denshinbashira
| 2012-09-04 08:25
| 人間は信頼するに足る。
|
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