2012年 09月 05日
シリーズ・人間は信頼するに足る・無意識のさらに奥の奥のほうに!その2 |
誰でも
穴があったら入りたいような
恥ずかしい自分や
自分の中のコンプレックスや
虚栄心にかられて
行動してしまった自分が
あるでしょ。
対抗意識や
負けん気が制御できず
ヌルヌルと
つい顔をだしてしまう…というように
自分が
自分をどうにもできず
そういう自分を
他者の前にさらしてしまった時
さらに他者の眼からみたら
何とも情けない自分の姿や
みじめな姿を
どうすることもできなかった自分など
自分なのに
どうにもならない。
人間は
いつも不完全で
未熟で
弱くて
情けないものです。
更にひとによっては
どうしても自分が
ゆるせず
自分を好きという感覚がなく
逆に
自分が嫌いと
攻めてくる
自分への攻撃に
もう耐えられなり、
膝を抱えてうずくまるしかない。
それは
まぎれもなく
私そのもでも
あります。
昨日私が書いた
無意識のずーっと奥の奥の方に或る
もっとも本質的な
”ほんとう”の世界
優しいその世界とは
そういう自分が
癒され安心する世界です。
※お断りしておきますが
間違っても
他人に癒してもらおうと思わないでください。
自分を
癒やすことは
自分にしかできませんから。
そこでは意識とは逆に
・価値のない自分を
みつけること。
・価値のない自分を
抱きしめること。
・価値のない自分を
許す世界です。
そういう自分の
いちばん弱い自分
情けない自分
みじめで
身勝手で
もう
どうしようもなくダメな自分を
受け入れた時
はじめてほんとうの
人間へのふかい認識が
理解できてくるのです。
自分と言う人間の
”人生”への尊厳と
他者の人生への
やさしいまなざしが
生まれるのです。
ダメな自分
どうしようもない自分は
自分の無意識におおきな
深い傷があるために
それが意識の中では
反転して
顕れてくるのです。
そしてその反転して
顕れてきた触手に
捕まった感情は
どうしようもなく
瞬間的に
からだじゅうに
その毒がまわってしまいます。
あっと気がついたときには
その、
やってはならないことを
やってしまった後で
その後
どうしようもなく
落ち込む。
そういう自分を
私は何度も
なんども
しょうこりこなく
やってしまっていた。
だから
どうしても自分が許せず
どうしても
自分が嫌でたまらないときは
自分の中がガランガランと
空洞化して
そして
自分がどんどん滅びてゆきました。
でもね
そういう時
空洞化しながら
もう
どうしようもないという
最後のその崖っぷちのところで
いいよ・・・という声が
こころの底の遠くから
聞こえるのです。
いいよ
自分の愚かさを
許してあげようよ、
それがにんげんだから。
いいよ
そのままで。
なにひとつ
変えなくていい
それで
いいよ。
と
私の中のわたしが言います。
その声に包まれた時
わたしのすべてが
溶けていきます。
涙がポロポロこぼれます。
私という人間の緊張という緊張は
すべて溶けてしまい
そこには
力も抵抗も屈折もなく
ただ
ただ
優しいエネルギーが
流れていきます。
ああ
ここだなあ・・・・。
ここが
人間の命の海で
ここが
すべての人間と溶け合う世界だと
わたしは
ほっと
安心します。
つまり
無意識のなかに
心の傷があるからこそ
人間は愚かなこを
してしまうのですが
それは
いきものとして生きる
私たちに
宿命的に
命が
命を守ろうとして
そうなるのであり、
すべての人間が
その弱さのなかにあり
その脆弱さにおいて
愚かさにおいて
みんな
同じになる世界です。
つまりこの世界
このレベルにおいて
人間は
等しく、
同じ”生”を営む命として
みんなが同じ地平を生きている。
どんぐりの背比べのようにね。
究極にはね、
人間は
生きてるだけでいいんです。
自分に絶望し
自分が救いがたい時
そういう声が聞こてくる。
もし
聞こえてこなかったら
自分に
言ってあげてください。
いや
人間はみーんな
そういうモンだよ。
だから
生きてる・・ってことだけが
意味があって
価値があるんだ・・・と。
意味っていうのは
生きてみなけりゃ・意味なんて
わからないし、
生き切って
最後まで行ってはじめて
ああずいぶん厳しい中を
生き抜いてきたなあーと
生き抜く
そこに価値があったんだ・・・って
分かるんだね。
意味も
価値も
遠くから
過去を眺めたときはじめて
ああ、そうだったのか・・・と
知ることができるものなんです。
自分の苦しいところを
掘って掘って、底までほってはじめて
底の奥にある光が
見えてくるんですね。
自分が滅びそうになるから
世の中を逃れて
自分を閉じて
自分だけを見つめて
その孤独の暗い道を突き進む。
そのくらいひとりぼっちの
自分の”生”を
コツコツ、コツコツ掘ってゆくうちに
やがて、
いつのまにか
自分の傍に
自分と同じように
孤独で寂しい道をコツコツ掘っている
おなじようなヤツがいて
そのとなりにも
おなじように
他者がいて
という風に
この地球上には
自分と同じように
生きている
たくさんの他者が生きてる・・・ってことに
やっと気が付いてくるというわけです。
そここそ
”普遍的なる人間の世界”だと
私は
思います。
それはね
孤独でない者
自分に絶望していない者には
決して見えない世界なんですよ。
なぜなら
自分が見えるから
自分の孤独も見えてくる。
しかし他者に依存し
他者と一体化した者は
孤独どころか
自分さえも消滅してしまうから
見えるはずがないんです。
孤独と苦悩のはてに
あの
優しい世界は存在するのです。
だからね、
自分の”生”を
追究してごらんよ・・・・・・・。
やさしいほんとうの世界とは
吉江啓蔵さんが
滅びゆくカワラノギクに
心を注いだように
たった一つの自分の命を
滅びさせないように
自分で救いだすのです。
ひたすら
注がれた
”なんとか生かそう”という
眼差しの中で
やさしく柔和な音楽が
私たちを包みこむように
敵意も憎しみも
悲しみ苦しみも
すべてが
消えて、
ひたすら救いに目がそそがれる。
そういう
ただただ
やわらかく
やさしい
自分が存在する。
その場所が
誰にもあるってことです。
でもそこは遠いよ!
決して近くはない。
たくさんの衣を脱がないと
行けない。
でも
私は
行きたいです。
行けると
いいなあ・・・。

『伝心柱マガジン』
● 告知
映画「流・ながれ」ロードショウについて
Moreをご覧ください。
↓
告知
以前このブログでもご紹介した
ドキュメンタリー映画「流・ながれ」のロードショウが
10月27日(土)ポレポレ東中野で上映されます。
11月には同じ場所での連続上映があるそうですが
詳しくはまだ決まってません。
スケジュールが決まり次第ご報告いたします。
それで
このブログを読んでくださっている方で
御覧になりたい方に
私からチケットをギフトします。
たくさんの方に見ていただきたいので
ご遠慮なさらずにどうぞ・・・。
お待ちしています。
ご希望の方は、コメント欄に非公開で
お名前とチケットの郵送先をお知らせください。
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。
穴があったら入りたいような
恥ずかしい自分や
自分の中のコンプレックスや
虚栄心にかられて
行動してしまった自分が
あるでしょ。
対抗意識や
負けん気が制御できず
ヌルヌルと
つい顔をだしてしまう…というように
自分が
自分をどうにもできず
そういう自分を
他者の前にさらしてしまった時
さらに他者の眼からみたら
何とも情けない自分の姿や
みじめな姿を
どうすることもできなかった自分など
自分なのに
どうにもならない。
人間は
いつも不完全で
未熟で
弱くて
情けないものです。
更にひとによっては
どうしても自分が
ゆるせず
自分を好きという感覚がなく
逆に
自分が嫌いと
攻めてくる
自分への攻撃に
もう耐えられなり、
膝を抱えてうずくまるしかない。
それは
まぎれもなく
私そのもでも
あります。
昨日私が書いた
無意識のずーっと奥の奥の方に或る
もっとも本質的な
”ほんとう”の世界
優しいその世界とは
そういう自分が
癒され安心する世界です。
※お断りしておきますが
間違っても
他人に癒してもらおうと思わないでください。
自分を
癒やすことは
自分にしかできませんから。
そこでは意識とは逆に
・価値のない自分を
みつけること。
・価値のない自分を
抱きしめること。
・価値のない自分を
許す世界です。
そういう自分の
いちばん弱い自分
情けない自分
みじめで
身勝手で
もう
どうしようもなくダメな自分を
受け入れた時
はじめてほんとうの
人間へのふかい認識が
理解できてくるのです。
自分と言う人間の
”人生”への尊厳と
他者の人生への
やさしいまなざしが
生まれるのです。
ダメな自分
どうしようもない自分は
自分の無意識におおきな
深い傷があるために
それが意識の中では
反転して
顕れてくるのです。
そしてその反転して
顕れてきた触手に
捕まった感情は
どうしようもなく
瞬間的に
からだじゅうに
その毒がまわってしまいます。
あっと気がついたときには
その、
やってはならないことを
やってしまった後で
その後
どうしようもなく
落ち込む。
そういう自分を
私は何度も
なんども
しょうこりこなく
やってしまっていた。
だから
どうしても自分が許せず
どうしても
自分が嫌でたまらないときは
自分の中がガランガランと
空洞化して
そして
自分がどんどん滅びてゆきました。
でもね
そういう時
空洞化しながら
もう
どうしようもないという
最後のその崖っぷちのところで
いいよ・・・という声が
こころの底の遠くから
聞こえるのです。
いいよ
自分の愚かさを
許してあげようよ、
それがにんげんだから。
いいよ
そのままで。
なにひとつ
変えなくていい
それで
いいよ。
と
私の中のわたしが言います。
その声に包まれた時
わたしのすべてが
溶けていきます。
涙がポロポロこぼれます。
私という人間の緊張という緊張は
すべて溶けてしまい
そこには
力も抵抗も屈折もなく
ただ
ただ
優しいエネルギーが
流れていきます。
ああ
ここだなあ・・・・。
ここが
人間の命の海で
ここが
すべての人間と溶け合う世界だと
わたしは
ほっと
安心します。
つまり
無意識のなかに
心の傷があるからこそ
人間は愚かなこを
してしまうのですが
それは
いきものとして生きる
私たちに
宿命的に
命が
命を守ろうとして
そうなるのであり、
すべての人間が
その弱さのなかにあり
その脆弱さにおいて
愚かさにおいて
みんな
同じになる世界です。
つまりこの世界
このレベルにおいて
人間は
等しく、
同じ”生”を営む命として
みんなが同じ地平を生きている。
どんぐりの背比べのようにね。
究極にはね、
人間は
生きてるだけでいいんです。
自分に絶望し
自分が救いがたい時
そういう声が聞こてくる。
もし
聞こえてこなかったら
自分に
言ってあげてください。
いや
人間はみーんな
そういうモンだよ。
だから
生きてる・・ってことだけが
意味があって
価値があるんだ・・・と。
意味っていうのは
生きてみなけりゃ・意味なんて
わからないし、
生き切って
最後まで行ってはじめて
ああずいぶん厳しい中を
生き抜いてきたなあーと
生き抜く
そこに価値があったんだ・・・って
分かるんだね。
意味も
価値も
遠くから
過去を眺めたときはじめて
ああ、そうだったのか・・・と
知ることができるものなんです。
自分の苦しいところを
掘って掘って、底までほってはじめて
底の奥にある光が
見えてくるんですね。
自分が滅びそうになるから
世の中を逃れて
自分を閉じて
自分だけを見つめて
その孤独の暗い道を突き進む。
そのくらいひとりぼっちの
自分の”生”を
コツコツ、コツコツ掘ってゆくうちに
やがて、
いつのまにか
自分の傍に
自分と同じように
孤独で寂しい道をコツコツ掘っている
おなじようなヤツがいて
そのとなりにも
おなじように
他者がいて
という風に
この地球上には
自分と同じように
生きている
たくさんの他者が生きてる・・・ってことに
やっと気が付いてくるというわけです。
そここそ
”普遍的なる人間の世界”だと
私は
思います。
それはね
孤独でない者
自分に絶望していない者には
決して見えない世界なんですよ。
なぜなら
自分が見えるから
自分の孤独も見えてくる。
しかし他者に依存し
他者と一体化した者は
孤独どころか
自分さえも消滅してしまうから
見えるはずがないんです。
孤独と苦悩のはてに
あの
優しい世界は存在するのです。
だからね、
自分の”生”を
追究してごらんよ・・・・・・・。
やさしいほんとうの世界とは
吉江啓蔵さんが
滅びゆくカワラノギクに
心を注いだように
たった一つの自分の命を
滅びさせないように
自分で救いだすのです。
ひたすら
注がれた
”なんとか生かそう”という
眼差しの中で
やさしく柔和な音楽が
私たちを包みこむように
敵意も憎しみも
悲しみ苦しみも
すべてが
消えて、
ひたすら救いに目がそそがれる。
そういう
ただただ
やわらかく
やさしい
自分が存在する。
その場所が
誰にもあるってことです。
でもそこは遠いよ!
決して近くはない。
たくさんの衣を脱がないと
行けない。
でも
私は
行きたいです。
行けると
いいなあ・・・。

● 告知
映画「流・ながれ」ロードショウについて
Moreをご覧ください。
↓
告知
以前このブログでもご紹介した
ドキュメンタリー映画「流・ながれ」のロードショウが
10月27日(土)ポレポレ東中野で上映されます。
11月には同じ場所での連続上映があるそうですが
詳しくはまだ決まってません。
スケジュールが決まり次第ご報告いたします。
それで
このブログを読んでくださっている方で
御覧になりたい方に
私からチケットをギフトします。
たくさんの方に見ていただきたいので
ご遠慮なさらずにどうぞ・・・。
お待ちしています。
ご希望の方は、コメント欄に非公開で
お名前とチケットの郵送先をお知らせください。
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。
by denshinbashira
| 2012-09-05 07:06
| 人間は信頼するに足る。
|
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