2012年 09月 22日
シリーズ 映画「流 ・ながれ」より・生れ生れて生の始めに暗く |
『 生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し 』(空海)
能勢カメラマンから送られてきた
映画のCDを
見終わった時
正直にいうとほんのちょっとの間
息が止まり
頭が停止してしまいました。
それは
10年間も、
絶滅しそうなカワラノギクの花を保護し続けた
吉江翁とそれを追い続けて映画にした
能勢さんに対して(その時は村上監督とは面識がありませんでした。)
すごいなあーと圧倒されると同時に
返す刀で
「なんて自分はダメなんだろうー」という
自分に対するディスカウントがあり
私はほんの数秒のあいだ
自分を喪失し
うなだれました。
10年間もコツコツとやり遂げていく人に対する
私のコンプレックスが作動してしまい
自分はなんて軟弱ものかと・・・。
ナ―ンも為し得ていないなあ・・と
自罰してしまったのです。
しかし
やがてむっくりと起き上った時には
理性の自分をとりもどし
心の底流にジーンとながれる
静かな感動が
ありました。
ただそれは、
その時
自分が何を感じたのかは
後になって開かれ
明らかになっていきますが
見終わった直後の
私の意識の層は
映画のなかから
無意識が感じ取っていた
別の重さを
知りませんでした。
無意識が感じ取っていたものは
そのあとずいぶん時間がたつにつれ
ネガがポジに焼かれていくように
私の中で
顕れてきました。
多分私の無意識が感じていたのは
自分の孤独の重さと
吉江翁の人生の中で
長ーく閉じられた沈黙の奥にあるもの
その森の冥さと重さの量感が
重なり合う世界を
感じていたとおもいますが
その時の
私の意識はそこに焦点を合わさず
逆に、そこに気づかないように
ごく当然な
一般的な意味と価値のテーマである
環境破壊のなかの
水棲昆虫を調査する老人と
絶滅種を保護する老人の無償の行為への
感動と共感の方へと
大きく旋回していきました。
そして
この尊い行為とその映像を
広く世間に見てもらいたいという風に
自分の意識を目的化させていきました。
私の意識は平板にスライドして
ふたりの老者の善行へと
向いていきましたが、
しかし勿論、
それもとても大切な尊いことですが、
この映画から読み取った
もっと本質的なものとして
私の無意識はもっと
深い深淵をみていたと
思います。
正直に言うと
私はあまり
”エコ”という言葉が
好きではありません。
更にオーガニックとかも
抵抗があります。
むしろ
子どもを産みたての私は
当時、無農薬のお米や野菜を求めて
そういう運動をしていましたし、
子どもをおんぶして、
無農薬のお米を生産してもらうために
山形県高畑町まで
重労働である田の草取りの
援農にでかけていました。
また近所の農家には
毎週のごとく援農にでかけては
クタクタに疲れてしまい
大量のたい肥作りや
農薬や除草剤をまかない農業が
いかにむずかしく
重労働で大変かを
身を持って味わされました。
有機農産物や無農薬・・と云う野菜やお米を
生産することが
それを手に入れることが
いかに大変であり
自分の安易さを
思い知らされて
途中で力尽きて
その運動から脱落していきました。
また
有機農業という言葉は
私が尊敬する知人の論文
自然が有機的に循環していく農業・・と云う言葉の中から
産まれました。
今は有機農産物というのが
巷には
溢れていますが・・・?
だから、簡単にエコとか言うな・・とも
思いますし
そのうえ
地球にやさしい・・・ということばになると
なにか
都会人の都合のよさの白々しさを感じるし
偽善を感じざるを得ないです。
だったら
自分の都合や欲望を相対化して
人間のエゴを相対化して
まず自分の中の内面の矛盾を見極めてから
言え・・・と
思うのです。
自分が獲得している文明的恩恵を
エコというその代償として
捨てるなら
そこに、
ちったぁ道理もみえるけど
文明の恩恵を浴びるほど受けておきながら
そこにはメスを入れず
更に自分達の欲望を
加速せておきながら
エコも
地球にやさしいもないものだ。
自分達の安全と安心ばかりを
国家や社会に求めるその
依存を捨ててから言え・・と
思うのです。
私も含めて
その恩恵を捨てられない人間が
口先だけで
軽々しくいうな・・・とも
思うのです。
だから私は
簡単に
エコとか自然を守るとか
オーガニックとか・・・を
高らかに唱える人たちには
近づきません。
そして環境問題を
先頭に立って尽力している人々には
深く頭を垂れますが
それを
運動をしている・・・となると
やはりあとずさりをして
しまいます。
むしろ
文明に呑みこまれてしか
生きれない
自分の後ろめたさや
先へ先へ進む工業や経済へと
無抵抗に連れ込まれてしまう怒りや不安、
それに抗することもできず
無手で、突っ立っている自分の
”無力さ”のほうにこそ
リアリティがあり
うなだれてしまうのです。
しかし
そういう私が
この映画の吉江翁と斉藤翁の姿には
素直に素直に共感する
深い感動がありました。
なぜでしょうねぇ~!
多分それは
吉江翁のなかに
私がいつか辿りつきたい人間の姿を
見たからだと思います。
小石だらけの河原の小さな泥水のなかで
楚々と咲くカワラノギクと
それに心を注ぐその
人生の最後の静謐の時の風景として、
そのことの深い意味に
こころが同調したのだと
思います。
『 生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し 』の
その生と死の中の間にある
短くも長い自分の人生の
もう終幕ちかくに注がれる
優しい、自分へのまなざし。
おそらくそのまなざしは
翁自身からすでに離れて、
生きるか死ぬかの不確かさなかで
咲こうとするカワラノギクのなかに
置かれていると
思います。
カワラノギクのなかに
ちいさな、ささやかな生のなかに
ポトンと
落されたと
思います。
つづく
次回は
私が
ほんとうは
この世の中を
どう見ているのかを
書きます。

● 告知
映画「流・ながれ」ロードショウについて
Moreをご覧ください。
↓
告知
以前このブログでもご紹介した
ドキュメンタリー映画「流・ながれ」のロードショウが
10月27日(土)ポレポレ東中野で上映されます。
11月には同じ場所での連続上映があるそうですが
詳しくはまだ決まってません。
スケジュールが決まり次第ご報告いたします。
それで
このブログを読んでくださっている方で
御覧になりたい方に
私からチケットをギフトします。
たくさんの方に見ていただきたいので
ご遠慮なさらずにどうぞ・・・。
お待ちしています。
ご希望の方は、コメント欄に非公開で
お名前とチケットの郵送先をお知らせください。
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。
死に死に死に死んで死の終りに冥し 』(空海)
能勢カメラマンから送られてきた
映画のCDを
見終わった時
正直にいうとほんのちょっとの間
息が止まり
頭が停止してしまいました。
それは
10年間も、
絶滅しそうなカワラノギクの花を保護し続けた
吉江翁とそれを追い続けて映画にした
能勢さんに対して(その時は村上監督とは面識がありませんでした。)
すごいなあーと圧倒されると同時に
返す刀で
「なんて自分はダメなんだろうー」という
自分に対するディスカウントがあり
私はほんの数秒のあいだ
自分を喪失し
うなだれました。
10年間もコツコツとやり遂げていく人に対する
私のコンプレックスが作動してしまい
自分はなんて軟弱ものかと・・・。
ナ―ンも為し得ていないなあ・・と
自罰してしまったのです。
しかし
やがてむっくりと起き上った時には
理性の自分をとりもどし
心の底流にジーンとながれる
静かな感動が
ありました。
ただそれは、
その時
自分が何を感じたのかは
後になって開かれ
明らかになっていきますが
見終わった直後の
私の意識の層は
映画のなかから
無意識が感じ取っていた
別の重さを
知りませんでした。
無意識が感じ取っていたものは
そのあとずいぶん時間がたつにつれ
ネガがポジに焼かれていくように
私の中で
顕れてきました。
多分私の無意識が感じていたのは
自分の孤独の重さと
吉江翁の人生の中で
長ーく閉じられた沈黙の奥にあるもの
その森の冥さと重さの量感が
重なり合う世界を
感じていたとおもいますが
その時の
私の意識はそこに焦点を合わさず
逆に、そこに気づかないように
ごく当然な
一般的な意味と価値のテーマである
環境破壊のなかの
水棲昆虫を調査する老人と
絶滅種を保護する老人の無償の行為への
感動と共感の方へと
大きく旋回していきました。
そして
この尊い行為とその映像を
広く世間に見てもらいたいという風に
自分の意識を目的化させていきました。
私の意識は平板にスライドして
ふたりの老者の善行へと
向いていきましたが、
しかし勿論、
それもとても大切な尊いことですが、
この映画から読み取った
もっと本質的なものとして
私の無意識はもっと
深い深淵をみていたと
思います。
正直に言うと
私はあまり
”エコ”という言葉が
好きではありません。
更にオーガニックとかも
抵抗があります。
むしろ
子どもを産みたての私は
当時、無農薬のお米や野菜を求めて
そういう運動をしていましたし、
子どもをおんぶして、
無農薬のお米を生産してもらうために
山形県高畑町まで
重労働である田の草取りの
援農にでかけていました。
また近所の農家には
毎週のごとく援農にでかけては
クタクタに疲れてしまい
大量のたい肥作りや
農薬や除草剤をまかない農業が
いかにむずかしく
重労働で大変かを
身を持って味わされました。
有機農産物や無農薬・・と云う野菜やお米を
生産することが
それを手に入れることが
いかに大変であり
自分の安易さを
思い知らされて
途中で力尽きて
その運動から脱落していきました。
また
有機農業という言葉は
私が尊敬する知人の論文
自然が有機的に循環していく農業・・と云う言葉の中から
産まれました。
今は有機農産物というのが
巷には
溢れていますが・・・?
だから、簡単にエコとか言うな・・とも
思いますし
そのうえ
地球にやさしい・・・ということばになると
なにか
都会人の都合のよさの白々しさを感じるし
偽善を感じざるを得ないです。
だったら
自分の都合や欲望を相対化して
人間のエゴを相対化して
まず自分の中の内面の矛盾を見極めてから
言え・・・と
思うのです。
自分が獲得している文明的恩恵を
エコというその代償として
捨てるなら
そこに、
ちったぁ道理もみえるけど
文明の恩恵を浴びるほど受けておきながら
そこにはメスを入れず
更に自分達の欲望を
加速せておきながら
エコも
地球にやさしいもないものだ。
自分達の安全と安心ばかりを
国家や社会に求めるその
依存を捨ててから言え・・と
思うのです。
私も含めて
その恩恵を捨てられない人間が
口先だけで
軽々しくいうな・・・とも
思うのです。
だから私は
簡単に
エコとか自然を守るとか
オーガニックとか・・・を
高らかに唱える人たちには
近づきません。
そして環境問題を
先頭に立って尽力している人々には
深く頭を垂れますが
それを
運動をしている・・・となると
やはりあとずさりをして
しまいます。
むしろ
文明に呑みこまれてしか
生きれない
自分の後ろめたさや
先へ先へ進む工業や経済へと
無抵抗に連れ込まれてしまう怒りや不安、
それに抗することもできず
無手で、突っ立っている自分の
”無力さ”のほうにこそ
リアリティがあり
うなだれてしまうのです。
しかし
そういう私が
この映画の吉江翁と斉藤翁の姿には
素直に素直に共感する
深い感動がありました。
なぜでしょうねぇ~!
多分それは
吉江翁のなかに
私がいつか辿りつきたい人間の姿を
見たからだと思います。
小石だらけの河原の小さな泥水のなかで
楚々と咲くカワラノギクと
それに心を注ぐその
人生の最後の静謐の時の風景として、
そのことの深い意味に
こころが同調したのだと
思います。
『 生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し 』の
その生と死の中の間にある
短くも長い自分の人生の
もう終幕ちかくに注がれる
優しい、自分へのまなざし。
おそらくそのまなざしは
翁自身からすでに離れて、
生きるか死ぬかの不確かさなかで
咲こうとするカワラノギクのなかに
置かれていると
思います。
カワラノギクのなかに
ちいさな、ささやかな生のなかに
ポトンと
落されたと
思います。
つづく
次回は
私が
ほんとうは
この世の中を
どう見ているのかを
書きます。

● 告知
映画「流・ながれ」ロードショウについて
Moreをご覧ください。
↓
告知
以前このブログでもご紹介した
ドキュメンタリー映画「流・ながれ」のロードショウが
10月27日(土)ポレポレ東中野で上映されます。
11月には同じ場所での連続上映があるそうですが
詳しくはまだ決まってません。
スケジュールが決まり次第ご報告いたします。
それで
このブログを読んでくださっている方で
御覧になりたい方に
私からチケットをギフトします。
たくさんの方に見ていただきたいので
ご遠慮なさらずにどうぞ・・・。
お待ちしています。
ご希望の方は、コメント欄に非公開で
お名前とチケットの郵送先をお知らせください。
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。
by denshinbashira
| 2012-09-22 08:50
| 映画「流 ・ながれ」より
|
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