シリーズ 映画「流 ・ながれ」より・水にそうて! |
実の事を言えば
つい最近まで
私には誰にも言わず
ずーっとひとりで胸しまっていることがありました。
(この、ありました…と過去形にしていることを
覚えていてください。)
それれはよほど、
心理や脳の知識に精通していないと
理解できないことであり
果たしてその厳しさを
受けいれる事が出来る人間が
どれほどいるかと
思うからです。
人間の心理のこと、脳の内容のことが
わかればわかるにつれ
人間の脳はが個絶しており
人間は、ほんとうは
他者との断絶のなかに生きていること。
心理もその人間だけで
完結しており
それを他者が、
なかなか理解できないという
それぞれの限界のなかに
人間が生きていることが
近年、おおきなリアリティーをもって
私のなかの確信になってきていることです。
生きることは
いうなれば、
ひとりで生きるその厳しさのなかに
抛り出されることなのだと
いうこと。
だからこそ
生きる時にもっとも有効な生き方は
意識的に”自立”して生きると
いう事なのです。
そのことを
心理や脳の知識をもたない他者に話しても
所詮、
そんなことはない、と
反論されるか
嫌がられるか
短絡的に受けとられて、
流されるか・・・。
或いはまったく理解されないかで
多くの人間は、よほどの知力がないかぎり
そのこと理解できないだろうし
また知ったとしても
その厳存たる事実に
眼をそむけて生きている、
いや、
幻想の真っただ中で生きている人間は、
それを受け入れたら
生きていけないかも
しれないからです。
それは
究極的に、極論的に言えば
人間は
他者に理解されることはないと
いうことです。
その個絶のなかで
どうにか
関係を結びながら
相手を自分の得たデーターで
シュミレーションするしかないと
いう事です。
当然のことながら
そのシュミレーションは
当たるとこもありますが
多くの想定外や違和をうみます。
それでもその関係の中を
生きるしかないのです。
そして大概の人間は
自分のシュミレーションを信じて
生きています。
人間は意識が覚醒すればするほど
見渡すかぎり
ひとっこひとりいない
平原に
ひとりで立っているという
イメージです。
勿論人間は
常に集団の中で生き
その関係のなかで
お互いがささやかな交換をしながら
生きている。
そのささやかな交換のなかで
ささやかに満たされながら生きている・・・ハズなんです。
でも
それも多くが錯覚であり
幻想だなあ・・・と
私は思います。
ホントは
だれもが
ひとりぼっちだよと
思います。
他者から認められている・・ような
錯覚のなか
他者から
愛されているような
錯覚と思い込みの中を
生きており
それは陽炎のように不確かでしか
ありえません。
だからこそ
意識(脳)は外的世界を擬装して
あたかも
そこに何らかの実体があるような
幻想を創り出している。
幻想は常に実態に裏切られては
再生産されて持続される。
つまり
人間にとって
そのことをごまかさず
きちんと認識することは
とても辛いことです。
覚悟の出来ていない人間は
それを受け取る事ができないし
また、多くの覚醒した先人たちは
そのことに気づいたからこそ
それをつたえようとする多くの言葉を
残しました。
だからこそ
私は今まで書くのを躊躇していましたが
今日は初めてそのことを書きます。
それは映画「流・ながれ」の
吉江啓蔵翁を
みたからです。
映画「流・ながれ」を見終わって
しばらく経つうちに
私の無意識が見たものは
環境破壊による
自然の荒廃に取り組み
積極的に生きている
他者や世界のために献身する翁ではないと
気づいていきました。
むしろその奥にシャドーにように
浮かび上がってきたのは
自分の深い孤独を引きうけた人間。
特に吉江翁には
冒頭に書いたような
人間の宿命的な原野の中を
ひとりで歩いてこられたのではないかと
感じさせる淡々とした厳しい翳を
感じました。
石ころだらけの
固い河原の土の上で
けなげに咲く”カワラノギク”の絶滅を
なんとかふせごうとする
吉江翁の姿は
私にとっては
それは翁自身が
”生きたことを証明”しようとしている作業のように
思えました。
しかしそれは、
証明することによって
自己が存在したことを後世に残す、という
証しを得ようということでは
なく
自己の完結へ向けて
自己が存在している
最後の証しを
自分に証明して見せている行動のように
見えました。
つまり
これをやり終えて
自分が生きたことを
確認し
自分の人生の終焉の扉を開く道へと
心を整えていく。
だからそれはまったく
他者の介入の必要もなく成立する、
ひたすら、
吉江翁と花だけで完結されている聖域であり
カワラノギクに心を注ぎ続け、
翁は、
自分の生の証しのその業として
石を刻むように
挫けず
なしとげているようにも
思えました。
絵画分析では
石は障害を表します。
その
石ころがゴロゴロとする
固い河原の地面をスコップで掘り
カワラノギクの苗(ロゼット)を植える
吉江翁の姿は、
厳しい環境の中を生きぬこうとする
けなげな苗にご自分を投影し、
その苗を守るために
心のすべてをそこに落して
なんとか命のつながりを為そうする
求道者のようでありました。
洪水は、心理分析的には
人間が感情なかにのみ込まれて
溺れることを表しますが、
台風で増水した水に呑みこまれてしまう
幼い苗を懸命に補強するその姿には
おそらく人生の中で多々の人間の洪水の中を
ひとりでくぐり抜けてきたであろう
孤高の人の後姿をみるように
思えました。
冒頭に書いたように
私自身も
人間の事を知れば知るほど
他者への期待と依存を
あきらめる。
つまり
愛されることを
あきらめる(求めない)
理解されることを
あきらめる(求めない)
認められることを
あきらめる(求めない)
様々な自分の思い込みや
幻想を
ひとつずつ
捨ててきました。(求めない)
捨てることこそが(求めない事こそが)
私の自我の欲望や
桎梏からの
解放でもありました。
それは同様に他者を解放することでも
あります。
あきらめることは
自分を喪失することではありません。
むしろ
自分と他者を自分の自我である
支配欲や征服欲や依存や執着から
解放することでもあり
理解されること
認知されることを
あきらめることも
自分のエゴやコンプレックスや甘えを
取り除き(克服し)
人間が深層に抱いている
自我の埋没に対する不安の裏返しとして
自分は特別な人間でありたいという願望を
厳しく戒めるものであります。
他者と自分とは
対等で公平な地平でいきているという事を
厳しくも自覚する。
しかし
厳しさのなかにこそ
真の意味での
共生があります。
しかし
それはまた
私の体の中に
出来上がってしまった身体のホルモン体系で起る
体に染みついてしまった
自分の感情や
情動への欲求を
放棄しなければならず
この呪縛がなかなか解けないのです。
時に
胸を突くような
不安や悲しみの感情に襲われ
自分と言う人間の自我のかけらが
ひとつも
満ちることはなく、
すべてが
他者との断絶のなかにしかない・・・という
ぞっとするような孤独が
ふとした意識の隙間から襲ってくるという
自分の危機が何度もありました。
それは私の精神の危機でもアリますから
その危機をかわすために
自分の孤独や孤立を
ごまかし、ごまかし生きるよりほかはないと
自分に言い聞かせながら、また
それも人が生きることの
方法(術)なんだと
自分に言い聞かせながら
落ち込んでは
立ち直るという
常に自分の弱さとの戦いでした。
自分は
だれにも理解されることなく
この生を終えることを
受けいれること。
それを当然として
生きることこそ
自分の覚醒であると
言い聞かせて来ました。
人間(自分)の孤独を
百も承知して生きる。
しかし
それを
誰にも
言わない。
そして
ただ
ひたすら生きる。
でもそれは
人間はみんな
そうなんだということです。
多くの、ほとんどの人間が
そこに気づかないように
気づいても、それを意識化しないようにする。
或いはまったく気づかないために
他者との違和とすれ違いを
いさかいや他者の責任へと転化して
理由ずけて自分を納得させる。
そうして
それは怨念や憎しみや無念の
人生であったとしても
いや
そうであったからこそ
すべてを自分の胸に納め
沈黙の中を生き
生きぬいていった
多くの先人たち。
私65歳を過ぎ
自分のすぎ越してきた人生を
見渡しながら
やっと最近
そういう風に生きてきた
人々を
愛おしいと思える実感が
湧いてきたのです。
巷の中で
普通に生きているひとびと
そこに優しいまなざしを
向けようという
人生の同朋への共感が
湧いてきたのです。
そして、偶然
能勢カメラマンと出遭い
この映画を見せていただき
さらに
吉江翁の映像を
見て
あの
胸のなかにあった
孤独への
棘や
突っ張りが
ほどけていくのを
感じました。
翁は自覚しておられないかも
しれないが、
自分への優しいまなざしは
ごくごく自然に
カワラノギクの中へと
落されている。
自分へのやさしいまなざしこそ
命への共感であり
それは同じように
他者へのまなざしとなりうると
私のつまった胸のなかが
溶けていくのを
感じました。
解明されていく脳の事実と
人間の冷厳なる現実を
ごまかさない。
幻想がはがれても
動じない。
人間の孤独を
しっかり直視し
それでも
絶望しない。
それでも
他者と一緒に生きてゆく。
やっと
一緒に生きるという意味が
解けてきました。
最後に
吉江翁にとって予想外であったろうが
その姿を撮り続ける
村上氏と能勢氏の存在が
映画という目的はあったにしても
確実に翁を支え続けたと
私は
思います。
この相互のまなざしこそ
人間の無言の絆としてあり
素晴らしい合作で
ありました。
一方斉藤翁には
人生の成功者を感じます。
それは
成功して富や栄誉を得たとかいうことではなく、
ささやかにも翁を取り囲む仲間や
家族を得て
ご自分の生涯を通しての研究に取り組み続けるという
成功です。
それはとても大切なことで
その成功の影には
たくさんの努力や苦労が
あったと
思います。


● 告知
映画「流・ながれ」ロードショウについて
Moreをご覧ください。
↓
告知
以前このブログでもご紹介した
ドキュメンタリー映画「流・ながれ」のロードショウが
10月27日(土)ポレポレ東中野で上映されます。
11月には同じ場所での連続上映があるそうですが
詳しくはまだ決まってません。
スケジュールが決まり次第ご報告いたします。
それで
このブログを読んでくださっている方で
御覧になりたい方に
私からチケットをギフトします。
たくさんの方に見ていただきたいので
ご遠慮なさらずにどうぞ・・・。
お待ちしています。
ご希望の方は、コメント欄に非公開で
お名前とチケットの郵送先をお知らせください。
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。

先日、「狂人失格」という中村うさぎさんの本を読んだのをきっかけに
こちらのブログに辿りつき、いろいろ読ませていただき 目からうろこ状態でした
長年 理解できずに悩んでいた親子関係にも納得いくことがたくさんありました
これからも読ませていただきたいと思います
映画「流れ」は金沢の方で放映されたら是非観に行きたいです