2012年 09月 28日
シリーズ 映画「流 ・ながれ」より・無知に耽溺するものは? |
無知に耽溺するものは
あやめもわかぬ闇をゆく
明知に自足するものは、しかし
いっそう深い闇をゆく。
古代インド哲学
人間は脳の機能から言っても不可避的に
孤独の中を生きるしかありません。
しかしそれを自覚せずに
マス(集団)のなかに埋没し
ひたすらそこに一体化して
集団の幻想(団子)の中を生きる時
自分と他者の差異や個別性が
どんどん薄れてゆき
当然のごとく
自分と言う人間のなまなましい実感も
どんどん浸食されてゆく。
一方知に目覚め、
自分に目覚めて
私という個を掘りつづけるなかでも
そこにも
不可避的な孤独の闇の壁が
立ちはだかってくる。
そして
マスのなかに埋没するか
個として孤独をいきるか
いずれにしても
きちんと
自分の生き方の結果がでてくる時
それは否応なく
自分の人生へ降りかかって来ざるを
得ない
つまり
意識するか
或いは意識を消して[抑圧して)
回避するかにしても
人間は誰もが孤独の淵を
辿ってゆくしかないし
無明の闇のトンネルを
抜けてゆくしかない。
人間はなぜ、無意識と意識という
二重構造を造り上げたのか、
そこには人間の進化の必然があるのだろうが
とりあえず
今、人間が生きることは、
その人生の道すがらをとおして
意識と無意識を
いかに統合していくかであろうと
私は思っています。
無意識と意識の二重構造からくる
ねじれは
常に人生を通して
私たちの行く手にあらわれ
それを解決していくと
その先に光や希望がみえ
それを解決せずに放置していくと
そのねじれの苦い結果の現実を
私たちは背負うことになる。
私たちは生まれつくところを
選ぶわけにはいかない。
そして
生まれついたところには
誰もが否応なく
解決されていない
自分の先祖からの
苦い根をわたされてしまう。
実は、私たちの存在は
この過去からの時間の流れのなかの
上下に移動する時間と
そしてすべてが水平に移動する時間との
交叉するその座標の一点にあり
それが
日々の”今”の中で
どうあるべきかの選択を迫られている。
私という人間は
私でありながら
私ではないという矛盾の真っただ中で
日々
どうするべーかと
首をかしげながら生きている。
その時
その一点は
まぎれもない
ただ一つの(孤独の)一点で
しかしそれは
ともすると分岐点となる
おおきな価値の選択を
迫られている
一点で
だからこそ
”孤”であることが
おおきな”意味と価値”を持つ。
私たちはスル―される一点のように
自分の孤独を嘆くが
決して
私たちは
スル―されない!
私たちは
まぎれもない
”孤”の一点で
そこには
どう生きるべきかが
問われつづけている
大切な”孤”が
絶えず営み続けている
この宇宙の時間のなかに
浮かんでいるのである。
私自身
自分は永遠に理解されないであろうという
自分の殺伐な陥没感に
苛まれ続けたときが
あった。
この世は生きるに値するか・・・という
人生をほうり投げたい衝動に
何度もかられたが
しかし
在るとき
この軟弱ものめーッ!
何を甘えておる、
さっさと
自分の孤独を
引き受けろッ!
覚悟がたりねえー・・・という
天からの叱責が
降りてきた。
すべては
自明の理であり
誰もかれもが
そこを
いきとるんじゃー…とね。
この閉塞的な世の中で
しかし
この閉塞はもしかしたら
これまでの人間の在り方からくる
反動として
私たちが引き受けなければならない
ながーいトンネルになるかもしれません。
その閉塞のなかで
希望を見出すとしたら
それは
自分自身が
どんな生き方をして
どんな死に方をするかの
見当がつくことだろうと
思います。
生きることは
向こうからやってくることでもなく
マスのなかに埋没して
自己放棄することもなく
水平の時間と
上下の時間との結節点にある
孤としての”わたし”が
どう生きたら
自分を生かせるかを
日々考察し
選択していくことだと
私は思います。
その”孤”の水平の地平にも
上下の時間の永遠性のなかにも
同じように
たくさんの”孤”としての
同志=人間と
そして他の生きもの達の命もが
いずれも等価に生きている。
そのまなざしのなかに
吉江翁の”カワラノギク”も
斉藤翁の”水棲昆虫”も
ね。
孤独のトンネルを
抜けたところに
なにかがある・・・と思います。
無知に耽溺するものは
あやめもわかぬ闇をゆく
明知に自足するものは、しかし
いっそう深い闇をゆく。
という
冒頭の古代インドの哲学者に
告ぐ!・・・(えらそうな私ををお許しください)
しかしその深い闇の先に
きっと
その先が
あるよ!
無明の闇のトンネルを抜け出た先が
ね!

『伝心柱マガジン』
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映画「流・ながれ」ロードショウについて
Moreをご覧ください。
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告知
以前このブログでもご紹介した
ドキュメンタリー映画「流・ながれ」のロードショウが
10月27日(土)~11月2日(金)10:30/12:30/18:00の1日3回上映!
それ以降は朝のモーニングショーとして
11月3日(土)からは10:30の1日1回!
ポレポレ東中野で上映されます。
それで
このブログを読んでくださっている方で
御覧になりたい方に
私からチケットをギフトします。
たくさんの方に見ていただきたいので
ご遠慮なさらずにどうぞ・・・。
お待ちしています。
ご希望の方は、コメント欄に非公開で
お名前とチケットの郵送先をお知らせください。
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。
あやめもわかぬ闇をゆく
明知に自足するものは、しかし
いっそう深い闇をゆく。
古代インド哲学
人間は脳の機能から言っても不可避的に
孤独の中を生きるしかありません。
しかしそれを自覚せずに
マス(集団)のなかに埋没し
ひたすらそこに一体化して
集団の幻想(団子)の中を生きる時
自分と他者の差異や個別性が
どんどん薄れてゆき
当然のごとく
自分と言う人間のなまなましい実感も
どんどん浸食されてゆく。
一方知に目覚め、
自分に目覚めて
私という個を掘りつづけるなかでも
そこにも
不可避的な孤独の闇の壁が
立ちはだかってくる。
そして
マスのなかに埋没するか
個として孤独をいきるか
いずれにしても
きちんと
自分の生き方の結果がでてくる時
それは否応なく
自分の人生へ降りかかって来ざるを
得ない
つまり
意識するか
或いは意識を消して[抑圧して)
回避するかにしても
人間は誰もが孤独の淵を
辿ってゆくしかないし
無明の闇のトンネルを
抜けてゆくしかない。
人間はなぜ、無意識と意識という
二重構造を造り上げたのか、
そこには人間の進化の必然があるのだろうが
とりあえず
今、人間が生きることは、
その人生の道すがらをとおして
意識と無意識を
いかに統合していくかであろうと
私は思っています。
無意識と意識の二重構造からくる
ねじれは
常に人生を通して
私たちの行く手にあらわれ
それを解決していくと
その先に光や希望がみえ
それを解決せずに放置していくと
そのねじれの苦い結果の現実を
私たちは背負うことになる。
私たちは生まれつくところを
選ぶわけにはいかない。
そして
生まれついたところには
誰もが否応なく
解決されていない
自分の先祖からの
苦い根をわたされてしまう。
実は、私たちの存在は
この過去からの時間の流れのなかの
上下に移動する時間と
そしてすべてが水平に移動する時間との
交叉するその座標の一点にあり
それが
日々の”今”の中で
どうあるべきかの選択を迫られている。
私という人間は
私でありながら
私ではないという矛盾の真っただ中で
日々
どうするべーかと
首をかしげながら生きている。
その時
その一点は
まぎれもない
ただ一つの(孤独の)一点で
しかしそれは
ともすると分岐点となる
おおきな価値の選択を
迫られている
一点で
だからこそ
”孤”であることが
おおきな”意味と価値”を持つ。
私たちはスル―される一点のように
自分の孤独を嘆くが
決して
私たちは
スル―されない!
私たちは
まぎれもない
”孤”の一点で
そこには
どう生きるべきかが
問われつづけている
大切な”孤”が
絶えず営み続けている
この宇宙の時間のなかに
浮かんでいるのである。
私自身
自分は永遠に理解されないであろうという
自分の殺伐な陥没感に
苛まれ続けたときが
あった。
この世は生きるに値するか・・・という
人生をほうり投げたい衝動に
何度もかられたが
しかし
在るとき
この軟弱ものめーッ!
何を甘えておる、
さっさと
自分の孤独を
引き受けろッ!
覚悟がたりねえー・・・という
天からの叱責が
降りてきた。
すべては
自明の理であり
誰もかれもが
そこを
いきとるんじゃー…とね。
この閉塞的な世の中で
しかし
この閉塞はもしかしたら
これまでの人間の在り方からくる
反動として
私たちが引き受けなければならない
ながーいトンネルになるかもしれません。
その閉塞のなかで
希望を見出すとしたら
それは
自分自身が
どんな生き方をして
どんな死に方をするかの
見当がつくことだろうと
思います。
生きることは
向こうからやってくることでもなく
マスのなかに埋没して
自己放棄することもなく
水平の時間と
上下の時間との結節点にある
孤としての”わたし”が
どう生きたら
自分を生かせるかを
日々考察し
選択していくことだと
私は思います。
その”孤”の水平の地平にも
上下の時間の永遠性のなかにも
同じように
たくさんの”孤”としての
同志=人間と
そして他の生きもの達の命もが
いずれも等価に生きている。
そのまなざしのなかに
吉江翁の”カワラノギク”も
斉藤翁の”水棲昆虫”も
ね。
孤独のトンネルを
抜けたところに
なにかがある・・・と思います。
無知に耽溺するものは
あやめもわかぬ闇をゆく
明知に自足するものは、しかし
いっそう深い闇をゆく。
という
冒頭の古代インドの哲学者に
告ぐ!・・・(えらそうな私ををお許しください)
しかしその深い闇の先に
きっと
その先が
あるよ!
無明の闇のトンネルを抜け出た先が
ね!

● 告知
映画「流・ながれ」ロードショウについて
Moreをご覧ください。
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以前このブログでもご紹介した
ドキュメンタリー映画「流・ながれ」のロードショウが
10月27日(土)~11月2日(金)10:30/12:30/18:00の1日3回上映!
それ以降は朝のモーニングショーとして
11月3日(土)からは10:30の1日1回!
ポレポレ東中野で上映されます。
それで
このブログを読んでくださっている方で
御覧になりたい方に
私からチケットをギフトします。
たくさんの方に見ていただきたいので
ご遠慮なさらずにどうぞ・・・。
お待ちしています。
ご希望の方は、コメント欄に非公開で
お名前とチケットの郵送先をお知らせください。
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。
by denshinbashira
| 2012-09-28 09:16
| 映画「流 ・ながれ」より
|
Comments(4)
ひとりで立つことが、たまらなく心もとなく、自分が非力で小さく、いまはとても心細いです。
自分の中を独りでのぞきこむと、孤独な気持ちがどんどん強くなります。しんどい作業です。
自分の中を独りでのぞきこむと、孤独な気持ちがどんどん強くなります。しんどい作業です。
0
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
かえる様。貴方は非力でもなく、小さくもありません。そういう風に思い込まされてきている。もしくはそういう風な扱いをうけてきており、自分の自力で何かを達成した達成感が乏しいからだと思います。ぜひこのブログのシリーズの”共依存からの脱出”をお読みください。
お返事を有り難うございます。
自力で成そうと何度もチャレンジしているのですが、頑張りが途中で忍耐、我慢、不満を封じる、閉塞に変化し、このループを何周も繰り返してこうちに、エネルギーが落ちきる。それでも頑張る。
始めた時に望んだものと全く違う閉塞的な状態にたどり着き、無力感をまた自分で強化してしまいます。
共依存の記事を読みはじめています。
ストンと理解して1つ出口が見えたり、とても混乱したりしますが、きっと私の中の何かが反応しているのだと思います。
沢山の記事をありがとうございます。
がんばります。
自力で成そうと何度もチャレンジしているのですが、頑張りが途中で忍耐、我慢、不満を封じる、閉塞に変化し、このループを何周も繰り返してこうちに、エネルギーが落ちきる。それでも頑張る。
始めた時に望んだものと全く違う閉塞的な状態にたどり着き、無力感をまた自分で強化してしまいます。
共依存の記事を読みはじめています。
ストンと理解して1つ出口が見えたり、とても混乱したりしますが、きっと私の中の何かが反応しているのだと思います。
沢山の記事をありがとうございます。
がんばります。

