映画「ロゼッタ」を見て。 |
ダルデンヌ兄弟監督作品 の
2本の映画のDVD「ロゼッタ」「イゴールの約束」を
見ました。
監督とお約束した通り
この映画についての感想をかきましょう。
まずは2本の映画を見終わって
すぐに頭に浮かんだ言葉たちを
書きます。
・重たくていいです。
・まっすぐに人間に焦点が当たっていていいです。
・ずーっと一貫してカメラから焦点がぶれない。
・光があります。まっすぐな光があります。
まっすぐに人間を見ていまます。
・ロゼッタとイゴールがいいです。
・二人ともが愛しいです。
・アシタがものすごくいいです。
・アシタの中には、いかなるものにも
慄然として立ち向かう強さがあります。
・ロゼッタの体中に怒りが溢れ
その歩き方、走りかたに、
彼女の感情のすべてが波動のように
伝わってきます。
・イゴール少年の沈黙の深部にある
不条理に対する神の啓示的な信頼を
見ます。
・監督のまなざしがいいです。
・イゴールと人間が、ロゼッタと社会とが
山と山、山と海のように
向き合っている。
・やっぱりやさしいです、人間を見ている目がね。
・内面だけをどんどん写し(映し)撮ってゆき
いっさいの説明されないが観客にはその内面が
手に取るように理解されてゆく。
・以前見た日本映画の「誰もしらない」は
見終わったあと不快感がや不全感が残った。
それは問題提起だけをして、しぱなっしに
終わったからだ。しかし
ロゼッタもイゴールも、その先があり
それが見えているから
つまり
人間に対する信頼を作り手が持っているから
見終わった後に、
高質の余韻がのこり、観客はきちんと
映画を受けとめることができる。
・物の隙間から覗くロゼッタ、
自動車の行き交う道路を横断して森(林)のなかに入る
ロゼッタの怯えと緊張に監督が寄り添っている。
・たましいの所、汚れていないその人間の核(本質)のところに
いつも焦点[主眼)をあて
こちらに向かって言葉を投げかけてゆく。
・先入観を排し、しかし一方では絶対的な信頼を
対象において、言葉を投げかけてゆく。
以上、ノートに殴り書きした感想です。

さて
今日は一本めの「ロゼッタ」という作品について
殴り書きしたその後に浮かんできた感想を
書きます。
この映画1999年のカンヌ映画祭の
パルムドール大賞、主演女優賞をとった作品です・・が
まあ
そんなこたぁー関係なく書きます。
まずは二つの作品は
美しいです。
美しいというのは、
風景が美しいとか、女優の顔が美しいとか
衣装や画面が美ししというのでは
ありません。
人間にとって何が美しいのかを
知っている人が撮った美しさが
画面いっぱいに溢れてあるという事です。
そして「ロゼッタ」の中には
まるで心理学や精神分析の世界を
熟知しているように
暗示的な背景や小道具や音が
たくさん出てきます。
例えば
ロゼッタは自動車の行き交う道路を走り抜けて
森のなかに入り、
そこを通りぬけて公園のなかにある
トレーラーの家へと帰っていきます。
つまり
車が激しく行き交う道路のこっち側は
ロゼッタの外の世界であり
ロゼッタが働く場所やお金という現実の社会があります。
そして
道路のあちら側、森の奥には
ロゼったの内的世界、
ロゼッタの内面が背負っている世界で
彼女の感情や生命を脅かす世界でもあります。
簡易な仮住まいのトレーラーハウスや
アル中の母親や
その自堕落な母親を喰いものにする
ケチな小人の大家や男たちが棲んでいる世界です。
外側では靴を履いているロゼッタが
この内的世界へ帰る時は
ドカンのなかに隠していた長靴に
履き替えます。
この危険な道路によって分断された世界は
二極化した彼女の意識の分裂を意味し
両極に同じ緊張と重さが平衡にあり
どちらも彼女が直面しなければならない
現実であり、
どちらの世界にも
彼女の居場所はありません。
乾ききった外的世界は靴で
そして
泥沼の内的世界で長靴は
自分を”まもる”履物として
その境界地点で靴から履き替えられます。
長靴には
心理的な防衛と警戒と自己武装の
象徴的な意味を感じます。
沼地や沼は
情緒的に不安定な怯えを暗示し
さらに
彼女はその沼に
母親から突き落とされ
足を泥にとられて溺れそうになり
母親に助けを求めても
逃げられてしまいます。
しかしロゼッタは
やっとながら
”自力”で這い上がります。
この母親はアル中とセックスだけに溺れ
自分の性を売りながら男に媚びて
食べ物やお金を貰っている、
人間として機能しない
敗残者です。
ロゼッタは
それでも母親を病院に入院させようとしまた
母親の縫ったものを褒め
退院したらミシンを買おうかと慰めます。
母親のロゼッタへの依存に
押しつぶれてそうなのに
ロゼッタは母親を捨てることができない。
ロゼッタの内面は
抑圧されたインナーチャイルドが
限界いっぱいであり、
その闇の痛みが
腹痛なって暴れる。
それをマッサージでなだめるが
私は心理的危機のサインとしての腹痛だと
思いますよ。
例えば登校拒否の子供が
学校へ行く時間になると
途端に腹痛がおきるようにです。
母親が
からだと交換に貰ってきた
チーズだか何だかの
食べ物を
ロゼッタは施しは受けないと
捨てようとし
その時母親から刃物?を
向けられます。
この時にはまだ
ロゼッタのなかに自尊の規範があります。
そして
そういうロゼッタの分裂したふたつの世界を
突き抜けて往来するのが
ロゼッタに好意を持っている
ワッフル売りの青年リケで、
リケはロゼットに仕事の情報を
持ってくる。
リケは二つの世界をつなぐ
トリックスター(舞台廻し)として唯一の
人間的感情をロゼッタに想起させる存在です。
それは
感情を膠着させているロゼッタがかすかに
心を赦し
逆説的な甘え
つまり
リケだけには、
ロゼッタが貶めたり裏切ったり…という甘えができる
唯一のロゼッタ側の生きている人間として
あります。
母親に沼に突き落とされたロゼッタのなかに
おそらく何かがおきたように
思います。
もしかしたら
この母親との
トレーラーの生活からの脱出が
ひそかに決意されたように思う。
なぜなら
それは
リケがロゼッタを夕食に誘い
ロゼッタはトレーラー帰らずに
そこに泊めて貰う事を
頼みます。
その時ロゼッタのなかに
微かな解放と安堵があり
意識の緊張したロゼットと
内面の傷ついたロゼットが
初めてことばで交流しあう。
「私はロゼット」
「あなたはロゼット」
「私はロゼット友達ができた」
「まっとうな生活」
「まっとうな仕事」と
「失敗はしない」と
ふたりのロゼットは
自分の決心を確認し合う。
多分ロゼッタはこの時
母親を捨てる
つまり森の向こうにある
母親と自分の共依存の世界、
内的世界を
捨てる決心をしたかもしれません。
しかしリケによって得た仕事も首になり
仕事はまったく見つからない中
もう崖っぷちに立つしかなくなったロゼッタは
追いつめられて危機の
その反動形成としての強気(シャドウの狂気)に
乗っ取られて行き
理性や判断力を奪われてゆく。
勿論以前あった自尊の規範も
大切な「まっとうな心」も
もうそんなものにかまってなんか
いられない。
そして
彼女に代わって
沼に落ちてしまった魚釣りのボトルを
引き寄せよせようとして
沼に滑り落ちて溺れそうになるリケをも
彼が溺れたら
その仕事が自分に廻ってくるという
悪魔の囁きにかられ
危うく
彼を見捨てようとしてしまう。
さらに
こともあろうか
リケが彼女を助けるために
彼女にお金が入るようにと明かした
彼の秘密
ワッフルの密売の事を
経営者に密告し
代わりに自分がその職を得るという
やってはならない裏切りを平然とします。
ここには、人間の脆弱さと甘えがありますが
むしろその甘えさえも封じられたときこそが
人間が臨界を越え狂気へと入っていく
最大の危機となります。
ここまでくるともう
神の掌の中へと入るしかない。
この最後の壁際まで押しやられた
ロゼッタの自我の混乱と
強気の仮面自我の決意、
仕事を得るために
倫理や友情をなかったことにして
決然と密告するロゼッタには
やましい罪悪感など蹴散らして
ただ”生きる”という命題のみが
そこにまとわりついて漂います。
いいですねえ・・・!!
人間を見つめる厳しさがいいです。
観客はここでロゼッタの不埒な行為に
愕然とするが、しかし
だからといって
観客は
眼をそむけない。
眼をそむけることよりもっとすごいが
その先にあることを
感じているからです。
※そしてその根底には作り手、表現者と
観客のなかに共通にながれている
アルものがあります。
その”アルもの”については
次の次のブログ
「イゴールの約束」の後に
私が書きたいと思っている
『表現者とは』の中で
書きます。
ここもスゴイです。
なぜか・・・?
悪を為すロゼッタの
命の決断のなかにある
不条理に対して、
人為を超えて
ロゼッタに注がれる、
ひそかで深い神の憐れみと祝福を
沈黙の中で
観客の無意識が見るからだと
思いますよ。
それは
そこいら辺に売っている
安売りの希望とは違う
何層にも、
何重層にも重ねられ
コールタールのような闇の中に
陽炎の影のように
不確かで微かに見える希望で、
押しつぶされたロゼッタの心の
わずかな隙間に見えたもの。
ロゼッタが
あの物陰から覗き見ていた
善でも悪でもない無機的感情の中に
微かに指す、
光にもならないほどに存する
光の予兆を
観客は言葉を失くしながらも
無意識にそこに見ているからだと
思います。
当然リケは愕然とし怒り
ロゼッタに詰めよるが
ロゼッタは仕事のためとしか
言えず、しかし
何も悪びれず
彼から逃げていく。
何という図々しいクソガキ女か・・・・。
リケに代わって
白いエプロンをつけ
ワッフルを売るロゼッタの前に
リケがワッフルを買いに来るが
わずかな目の動揺だけしか
彼女の顏には浮かばない。
それは彼女の内面がもう
壁のように閉じてしまい
その反動形成として
一切の柔らかい心を排除し
怖れや怯えを抑圧しつくし
もはや感覚は
陶器の面のように
ツルツルとすべてが滑り落ちていく。
それは
無感覚になったその心理のなかで
自己防衛が強化され仮面化しまった
顏でもある。
逆にうっすら笑顔すら浮かぶように
内面のすり替えを完成している・・・が。
ほんとうは
津波のように危機が押し寄せている。
しかしそれは誰にも
わからない!
そしてその日
家に帰ると母親が半ば気絶したように
泥酔状態で家の前に横たわっている。
その母親をやっとベットに寝かせたロゼッタは
電話で社長に仕事を辞めることを告げ
そして
なぜか
たまごを茹で
何事もないような顔で
その卵をたべながら
ガスの栓を開け
自殺を図る。
しかしねえ、
この時の”玉子(卵)”には
死と再生の意味が籠められており
古いロゼッタが死んで
新しいロゼッタが生まれるという暗示がある。
こういう小道具の
使い方がすごいですこの映画!
もう
金輪際こんな人生は嫌になったロゼッタの内面。
逆に感情を抑圧しきって
一片の動揺もなく
玉子を食べるロゼッタの耳に
シュッシューッとガスの漏れる音が
時間を刻む音のように
無機的に聞こえてくる・・・が
残念なことに
ガスもボンベの中が空になっている。
ガスの音とか
リケの家での
奢ってもらっている時の
その粗末な食事で
ナイフとフォークが
皿とぶつかり合う音など
一切の余計な音は
省いておいて
しかし
音だけでイメージを刺激してくるなどは
すごいなあと思いますよ。
その空になったガスボンベを
取り換えてもらうべく
家主のところへ行き
代わりの重いガスボンベを
抱きかかえながら
よろよろと帰るロゼッタの耳に
リケのオートバイの音が聞こえてくる。
ここで少しずつ
現実のいきた感情が
リケのオートバイの音に託されて
足音のようにロゼッタに近づいてくる。
やがてすぐ傍にきたリケに
砂粒を投げつけながら
遂に
緊張の糸が切れ
ロゼッタが嗚咽し始める。
固く閉じられ
他者を一歩たりとも入れないように
防御されていた
ロゼッタの内面に
一筋の亀裂が入る。
そしてリケがそばに立ち
嗚咽が泣き声にに代わって
泣きながら顔をあげてリケを見るロゼッタで
映画が突然終わる。
嗚咽する少女
もう泣くことしかない少女ロゼッタを
私は抱きしめたい。
きっと誰もが
そういう衝動のなかに置かれたと
思います。
ちなみに
自殺しそこなったロゼッタが
硬直した顔で抱えている
そのガスボンベこそ
実は
ガスはエネルギーを暗示し
生きるエネルギーが入ったボンベを
ロゼッタはよろけながらも抱えているのですね。
なんと暗示的かと
思います。
よけいな演出を全部そぎ落とし
最初から最後まで
ロゼッタの内面のど真ん中に
カメラの焦点を当て続け、
感情を抑圧しきり
硬直したままの顔の表情のみが
続く中で
観客は確実に
その内面を読み取っていく。
つまり一切の説明なしに
観客自身の内的イメージが
映像とともに進行し
常に”創発的”に
触発されていきます。
素晴らしいです。
そして表現者ダルデンヌ兄弟は
ただ一点に
すべてを集約しているように
思う。
それは
漫画家の奥友志津子さんが
私にくれたこの映画の感想を書いたメールの
「どちらの映画も
二人の閉じた世界に亀裂がはいり
開いてゆく一瞬が
ラストですよね。」
この言葉に尽きると思います。
それでは
次回に「イゴールの約束」を
書きます。


● 告知
映画「流・ながれ」ロードショウについて
Moreをご覧ください。
↓
告知
以前このブログでもご紹介した
ドキュメンタリー映画「流・ながれ」のロードショウが
10月27日(土)~11月2日(金)10:30/12:30/18:00の1日3回上映!
それ以降は朝のモーニングショーとして
11月3日(土)からは10:30の1日1回!
ポレポレ東中野で上映されます。
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。