2012年 10月 24日
映画「イゴール約束」より! |
「イゴールの約束」
もともとの原題は「約束」というだけで
”イゴール”はついていない。
私は日本人がなぜよけいな”イゴール”という言葉を
を付け足したのか、
首をかしげざるを得ない。
”イゴール”が付くだけでそこに少し
情緒や感傷が生まれて
この映画のなかにある厳しさや
品格が損なわれると考えるのは
私だけかなあ・・???
白人、キリスト教社会においては
”約束”というのは
神との契約を意味し、
そして聖書の中の人間は
ことごとく
神との契約の中で生きている。
だから約束ということは
存在の原点でもあり
単に自分の良心に基づいて
約束を守る…と
いう事ではなく
神との約束は絶対であり
神との契約を破棄するということは
その存在が、神との間で罪びととなり
神から見放され
存在の全否定と罰とを受ける
厳しい掟を持つものでも
ある。
ちなみにヨーロッパの教会の塔は
高く、高くと尖って天に向かい
神との一体化をめざしている。
旧約聖書、創世記において
ノア以後に出現した人間の始祖とされる
アブラハムは、神との契約で自分の子供を
殺し、いけにえとして捧げるように
命じられる。
そして
アブラハムが
子供に刃を向けた瞬間に神の啓示が下り、
神を恐れ、そのひとり子をささげようとした
アブラハムは許され
祝福され
人間として繁栄することを許される。
西欧キリスト教社会は
この神との約束(契約)が根底にあり、
人間の存在の原型、下敷きとして、いつも
その無意識の中の規範としてあることを
いつも考慮に入れておく必要があり、
そのことに於いて私は
この題がいかにも
日本的甘さというか情緒というか
大衆への迎合なのか
私には不必要に思える。
※例えば
今本屋に山積みされている
「ニーチェの言葉」という本などは
ニーチェが神との死闘の末
綴った言葉であり、
当然その下敷きには聖書の教養が必要です。
しかし
この本を読む人は
聖書を読んだのだろうか・・・?
そうではなく、上澄みの言葉だけを
読んでいいのかねえ・・?
なんだか安直すぎて
これまた首をかしげる
日本人現象だと思いますけどねえ・・?
この題名から”イゴール”を取り払うと
そこに見えてくるのは
単に少年の良心や罪悪感のめざめ・・という
平板なものではない。
もっと普遍的で
スケールの大きいものが
見えてきます。
根底にながれているのは
白人社会の人間の
無意識のなかにある
父なるものへの畏怖や呪縛や
厳しく人間を心理支配する
普遍的な規範としての
”約束”
のように
思います。
さて映画はその重い、
神との契約によって
はたさなければならない
人間の原点としての約束が
ひとつの命の死によって
ひとりの少年のなかに持ち込まれ
突き付けられてゆく。
つまり”命”と向き合ったとき
初めて少年は約束の重さを
突き付けられる。
違法外国人労働者の売人をし
ぼろアパートに住まわせ
不当に高い家賃をとり
裏社会で、人身売買までもやる
父親ロジェの下で
イゴールは父親のパシリを
やらせられている。
それでもイゴールは
修理工として、技術を教えてもらうべく
ガソリンスタンドで
働いている。
しかし
父親と同様に
老婦人の財布を盗むことなどにも
ナ―ンの罪の意識も持たない
チンピラワルでもある。
つまり神との約束など
この親子に取っては反故にされっぱなしであり、
しかし、ロジェは
表面の敬虔な市民の裏の悪をも
請け負っており
言うなれは
社会全体がもう
神とのやくそくを
反故にしている。
もう社会は病んでいるのだ。
それは映画中盤でのアシタのことば
「悪党が多い国ね」に
言い当てられてしまっている。
この映画でもイゴールは
バイクに乗り
醜悪な父親の内的世界と
ガソリンスタンドという外的世界を
往来しています。
そして
その父親が
違法労働者に提供しているアパートの住人
アフリカ人のアミドゥーの処へ
アフリカから奥さんと赤ん坊がやって
一緒に棲むようになりますが、
その矢先にアミドゥーは
労働監督官のガサ入れに逃げ遅れて
転落死をする。
その時アミドゥーはイゴールに
「女房と子供を頼む」と言い残し
イゴールは「約束する」と言う。
しかし
ロジェは違法行為が発覚するのを
怖れ
まだ息のあるアミドゥ―を
病院に運ぼうともせず
放置した後
イゴールに手伝わせて
小屋の隅に埋め
コンクリートでかためてしまう。
イゴールはことごとく父親の共犯に使われるが
しかしその内面は揺れ動きはじめる。
良心と罪悪感と
そして
アミドゥーの妻、アシタをだましていることが
とてもつらい。
しかし
父親の暴力的虐待とその反動の
舐めるように可愛がるその
囲い込みの中で
イゴールは自分を
どうすることもできない。
アシタはいつまでも帰った来ない夫を
心配し動揺するが
ロジェもイゴールもアシタをだまし続ける中
とうとうアシタの処理に困ったロジェは
アシタを娼婦として売ろうとし
ドイツからアミドゥーの電報が来たように工作し
言葉巧みに
ドイツへいくように誘い出し
車に載せたとき
その時
イゴールが、突然車を運転して
アシタを救い出す。
そして週末は留守になる
自分が修理工をしていた店へと
かくまうが
そこもロジェが嗅ぎつけて
襲ってくる。
その時
初めて
イゴールは
父親にNOを突き付ける。
そして父親に襲われそうになるが
アシタが後ろからロジェを鈍器で
ぶっ叩き、父親が倒れた隙に
父親を鎖に縛り付けて
アシタと一緒に
逃げる。
この時はじめて
父親の呪縛と桎梏から
イゴールは脱出する。
そして
父親から貰った指輪を売ったお金で
汽車の切符を買い
アシタの叔父さんがいる街へと
送りだそうする。
その駅の途中の階段で
はじめてイゴールは
アシタに
アミドゥーが死んだことを告げる。
それを聞いたアシタは
階段を上るのをやめ
うなだれて力なく
もと来た通路を
戻ってゆく。
その後をイゴールが追いかけて
寄り添うように歩いてゆくところで
映画は終わる。
「ロゼッタ」より以前に作られたこの作品は
「ロゼッタ」に比べて
ストーリー性があり
また、人物描写もていねいにされており
ほのかに詩情もあり
感傷もなくはないし、
色調を抑えた映像は
画面として美しい。
しかしその分「ロゼッタ」のような
緊迫感や
甘えや感傷をそぎ落とした厳しさが
凛とする気品には欠ける。
しかし美しい。
そして
「ロゼッタ」にはない
人間的な味というか
温度というか
存在感を持つ人間、
存在感を”失っていない人間”がいる。
それが
アフリカ人の女性”アシタ”を通して
伝わってくる。
アシタは
赤ん坊の悪霊払いや
鶏を捌いて、
その内臓で占うとか
およそ近代の文明人では考えられないような
土着的な呪詛のなかにいるが
しかしそこに在る
アシタそのものは
文明の手垢がついて
汚れきり
偽善と偽悪に薄汚れて
混沌の中をさまよう白人社会、
屍化してしまいつつある
白人キリスト教社会にはない
正直さと倫理を持っている。
鶏を捌いて、その内臓から
夫の事を占うその行為は
アシタの無意識のなかにある
プリミティヴなものへの信仰
自分の自我を超えてある
自分の全体性、
すなわち大いなるものへの
素朴な信仰がある。
その無意識の中には
鶏→人間→鶏と人間・・・→・・へと
不連続に連続する
”命なるものの連続”に対する
信頼と信仰がある。
それこそは
限りなく意識が分断され
分裂していく
現代人の我々が失いつつある
その対極にある
すべての命が
絶えず全体へと収斂していく
母なる命への信仰が
生きているからだと
思います。
それはアフリカの占い師の砂や石や
アシタが大事に持っている
土着的な偶像の人形も
みんなそこへ至るものとして
アシタのアイデンティティーを
支えている。
それは現代文明の中で
正体を失ってカルト化した信仰でも
迷信としていかがわしく、
胡散臭いものではなく
もっと純粋で明瞭なる
アフリカのこころ世界でもある。
神との契約でもうボロボロになった
人間たちが失った
母なる全体性でもある。
そこに包み込まれることにより
一切が赦される母なる世界であり
アシタのなかに
イゴールがそれを見ている。
とかく”愛”ばかりが強調されるキリスト教の本質は
マリアの母性信仰ではなく
天地を絶対支配するヤーウェであり
それは契約を破ることを
許さない
断罪する
父性の世界です。
砂漠のなかで生存をかけた厳しい
世界です、本当はね。
そして、その始まりに
神に背いた人間は
原罪を背負わされて生きていることに
なっており、
故に常にさまよいの中を生きる。
※日本人のキリスト者は
マリア信仰が多く、
実はキリスト教の本質
この絶対支配の神であることが
薄められてるように思います。
神にも等しい
絶対支配の父との約束の呪縛の中で
イゴールが見たものは
アシタの
明確な正直さ
明確な勇気
明確なる
正当性であり
アシタの包容力であり
そこには
堕ちてしまった者の
母なるものへの回帰願望が
愛情を求める揺らぎが
生まれている。
それが
父のごまかしと
偽善と偽悪世界のなかに生きてきた
イゴールの心を揺すぶり続ける。
父親からプレゼントされた指輪は
共犯契約の指輪であり
刺青は
父子密着の
共犯関係の固めの杯であり
身体的傷痕として
なかなか消えない心的傷痕を
意味します。
そして、アシタと逃げた後も
父親に電話をするイゴールは
まだ父親への依存を捨てきれない。
もう何もかもが
その契約のなかで
腐敗臭を放っている。
イゴールは母なるものをてにいれるだろうか?
アシタはイゴールを赦すだろうか?
赦さないかもしれないね。
しかしイゴールが指輪と引き換えにして
アシタに贈った切符は
確実に希望を託した切符で
新しい世界を予兆している。
人類は北アフリカの一人の女性から
始まった。
アシタの遠い遠い祖先である。
修正液を歯にくっつけて遊ぶ
イゴールと
いっぱしのワルを気取って
たばこをふかすイゴールと
そのどちらのイゴールのなかにも
アシタがいるはずでね。
ほんとうはね
皆つながっている
命の不連続の連続で。
白人キリスト教社会だけでなく
現代は、細分化され
デジタル化された世界の中で
人間はどんどん、自分の全体性を
失っている。
分裂した自分を統合できない病理の犯罪が
まったく見知らぬ人間に
刃を向けるという
分けも分からない犯罪が
多発するなか、
何かが狂っている。
しかしねえー
しかし
それでも
私は安易に現代を否定しません。
それどころか
この先に或るものを
なんとか探したいと思っている。
その先にきっと黎明があると
思っている。
そこにたどり着くまでまでは
解決していかなければならない
幾重に及ぶ困難があるとは
思いますが。
しかし現代ほど
”命”というものが
無機化しまくる中で
紙切れのように軽薄に扱われことに
私たちが気づかなければならない
何かがある。
きっと
気づかなければならない
何かが
ある。
それは
ロゼッタも、イゴールも
”命”にぶつかった時初めて
固く閉じていた自分の命の壁に
亀裂ができ
真摯なる水が外へと沁みだした。
ロゼッタは自殺しようとして
命をみすてようとした時
イゴールは、親密さを感じていた
アミドゥ―の死に直面して
はじめて
”自分の存在”という事を
確認し始めた。
命は命として
繋がり
更に
命は
他の命とも
不連続に連続してあり
この世の在りとアラユル命が
一瞬を共にしながら
生きている。
人間も鶏も山羊も石も砂も
そして
カワラノギクも水棲昆虫も
ありとあらゆるものが
不連続に連続して世界が成立して
息吹いている。
そこには
すべての命の源泉と
すべての
命を収斂させている
人為を超えた
全体があり
その全体から切り離されたとき
私たちもロゼッタもイゴールも
タダノ断片になり
彷徨う。
イゴールの約束は
母なるものをみつけることが
出来るであろうか。
アシタはイゴールを赦さないかもしれない。
しかし
やがて
イゴールは、アシタの懐の中へと
帰ってゆくと
私は思う。
きっと
母なるものの中へと
帰ってゆけると思う。
次回は
表現することとは何か
そして表現することの奥にあるものは
なにか・・・について
書こうと思っています。
でも
書けるかなあ・・・???

『伝心柱マガジン』
● 告知
映画「流・ながれ」ロードショウについて
Moreをご覧ください。
↓
告知
以前このブログでもご紹介した
ドキュメンタリー映画「流・ながれ」のロードショウが
10月27日(土)~11月2日(金)10:30/12:30/18:00の1日3回上映!
それ以降は朝のモーニングショーとして
11月3日(土)からは10:30の1日1回!
ポレポレ東中野で上映されます。
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。
もともとの原題は「約束」というだけで
”イゴール”はついていない。
私は日本人がなぜよけいな”イゴール”という言葉を
を付け足したのか、
首をかしげざるを得ない。
”イゴール”が付くだけでそこに少し
情緒や感傷が生まれて
この映画のなかにある厳しさや
品格が損なわれると考えるのは
私だけかなあ・・???
白人、キリスト教社会においては
”約束”というのは
神との契約を意味し、
そして聖書の中の人間は
ことごとく
神との契約の中で生きている。
だから約束ということは
存在の原点でもあり
単に自分の良心に基づいて
約束を守る…と
いう事ではなく
神との約束は絶対であり
神との契約を破棄するということは
その存在が、神との間で罪びととなり
神から見放され
存在の全否定と罰とを受ける
厳しい掟を持つものでも
ある。
ちなみにヨーロッパの教会の塔は
高く、高くと尖って天に向かい
神との一体化をめざしている。
旧約聖書、創世記において
ノア以後に出現した人間の始祖とされる
アブラハムは、神との契約で自分の子供を
殺し、いけにえとして捧げるように
命じられる。
そして
アブラハムが
子供に刃を向けた瞬間に神の啓示が下り、
神を恐れ、そのひとり子をささげようとした
アブラハムは許され
祝福され
人間として繁栄することを許される。
西欧キリスト教社会は
この神との約束(契約)が根底にあり、
人間の存在の原型、下敷きとして、いつも
その無意識の中の規範としてあることを
いつも考慮に入れておく必要があり、
そのことに於いて私は
この題がいかにも
日本的甘さというか情緒というか
大衆への迎合なのか
私には不必要に思える。
※例えば
今本屋に山積みされている
「ニーチェの言葉」という本などは
ニーチェが神との死闘の末
綴った言葉であり、
当然その下敷きには聖書の教養が必要です。
しかし
この本を読む人は
聖書を読んだのだろうか・・・?
そうではなく、上澄みの言葉だけを
読んでいいのかねえ・・?
なんだか安直すぎて
これまた首をかしげる
日本人現象だと思いますけどねえ・・?
この題名から”イゴール”を取り払うと
そこに見えてくるのは
単に少年の良心や罪悪感のめざめ・・という
平板なものではない。
もっと普遍的で
スケールの大きいものが
見えてきます。
根底にながれているのは
白人社会の人間の
無意識のなかにある
父なるものへの畏怖や呪縛や
厳しく人間を心理支配する
普遍的な規範としての
”約束”
のように
思います。
さて映画はその重い、
神との契約によって
はたさなければならない
人間の原点としての約束が
ひとつの命の死によって
ひとりの少年のなかに持ち込まれ
突き付けられてゆく。
つまり”命”と向き合ったとき
初めて少年は約束の重さを
突き付けられる。
違法外国人労働者の売人をし
ぼろアパートに住まわせ
不当に高い家賃をとり
裏社会で、人身売買までもやる
父親ロジェの下で
イゴールは父親のパシリを
やらせられている。
それでもイゴールは
修理工として、技術を教えてもらうべく
ガソリンスタンドで
働いている。
しかし
父親と同様に
老婦人の財布を盗むことなどにも
ナ―ンの罪の意識も持たない
チンピラワルでもある。
つまり神との約束など
この親子に取っては反故にされっぱなしであり、
しかし、ロジェは
表面の敬虔な市民の裏の悪をも
請け負っており
言うなれは
社会全体がもう
神とのやくそくを
反故にしている。
もう社会は病んでいるのだ。
それは映画中盤でのアシタのことば
「悪党が多い国ね」に
言い当てられてしまっている。
この映画でもイゴールは
バイクに乗り
醜悪な父親の内的世界と
ガソリンスタンドという外的世界を
往来しています。
そして
その父親が
違法労働者に提供しているアパートの住人
アフリカ人のアミドゥーの処へ
アフリカから奥さんと赤ん坊がやって
一緒に棲むようになりますが、
その矢先にアミドゥーは
労働監督官のガサ入れに逃げ遅れて
転落死をする。
その時アミドゥーはイゴールに
「女房と子供を頼む」と言い残し
イゴールは「約束する」と言う。
しかし
ロジェは違法行為が発覚するのを
怖れ
まだ息のあるアミドゥ―を
病院に運ぼうともせず
放置した後
イゴールに手伝わせて
小屋の隅に埋め
コンクリートでかためてしまう。
イゴールはことごとく父親の共犯に使われるが
しかしその内面は揺れ動きはじめる。
良心と罪悪感と
そして
アミドゥーの妻、アシタをだましていることが
とてもつらい。
しかし
父親の暴力的虐待とその反動の
舐めるように可愛がるその
囲い込みの中で
イゴールは自分を
どうすることもできない。
アシタはいつまでも帰った来ない夫を
心配し動揺するが
ロジェもイゴールもアシタをだまし続ける中
とうとうアシタの処理に困ったロジェは
アシタを娼婦として売ろうとし
ドイツからアミドゥーの電報が来たように工作し
言葉巧みに
ドイツへいくように誘い出し
車に載せたとき
その時
イゴールが、突然車を運転して
アシタを救い出す。
そして週末は留守になる
自分が修理工をしていた店へと
かくまうが
そこもロジェが嗅ぎつけて
襲ってくる。
その時
初めて
イゴールは
父親にNOを突き付ける。
そして父親に襲われそうになるが
アシタが後ろからロジェを鈍器で
ぶっ叩き、父親が倒れた隙に
父親を鎖に縛り付けて
アシタと一緒に
逃げる。
この時はじめて
父親の呪縛と桎梏から
イゴールは脱出する。
そして
父親から貰った指輪を売ったお金で
汽車の切符を買い
アシタの叔父さんがいる街へと
送りだそうする。
その駅の途中の階段で
はじめてイゴールは
アシタに
アミドゥーが死んだことを告げる。
それを聞いたアシタは
階段を上るのをやめ
うなだれて力なく
もと来た通路を
戻ってゆく。
その後をイゴールが追いかけて
寄り添うように歩いてゆくところで
映画は終わる。
「ロゼッタ」より以前に作られたこの作品は
「ロゼッタ」に比べて
ストーリー性があり
また、人物描写もていねいにされており
ほのかに詩情もあり
感傷もなくはないし、
色調を抑えた映像は
画面として美しい。
しかしその分「ロゼッタ」のような
緊迫感や
甘えや感傷をそぎ落とした厳しさが
凛とする気品には欠ける。
しかし美しい。
そして
「ロゼッタ」にはない
人間的な味というか
温度というか
存在感を持つ人間、
存在感を”失っていない人間”がいる。
それが
アフリカ人の女性”アシタ”を通して
伝わってくる。
アシタは
赤ん坊の悪霊払いや
鶏を捌いて、
その内臓で占うとか
およそ近代の文明人では考えられないような
土着的な呪詛のなかにいるが
しかしそこに在る
アシタそのものは
文明の手垢がついて
汚れきり
偽善と偽悪に薄汚れて
混沌の中をさまよう白人社会、
屍化してしまいつつある
白人キリスト教社会にはない
正直さと倫理を持っている。
鶏を捌いて、その内臓から
夫の事を占うその行為は
アシタの無意識のなかにある
プリミティヴなものへの信仰
自分の自我を超えてある
自分の全体性、
すなわち大いなるものへの
素朴な信仰がある。
その無意識の中には
鶏→人間→鶏と人間・・・→・・へと
不連続に連続する
”命なるものの連続”に対する
信頼と信仰がある。
それこそは
限りなく意識が分断され
分裂していく
現代人の我々が失いつつある
その対極にある
すべての命が
絶えず全体へと収斂していく
母なる命への信仰が
生きているからだと
思います。
それはアフリカの占い師の砂や石や
アシタが大事に持っている
土着的な偶像の人形も
みんなそこへ至るものとして
アシタのアイデンティティーを
支えている。
それは現代文明の中で
正体を失ってカルト化した信仰でも
迷信としていかがわしく、
胡散臭いものではなく
もっと純粋で明瞭なる
アフリカのこころ世界でもある。
神との契約でもうボロボロになった
人間たちが失った
母なる全体性でもある。
そこに包み込まれることにより
一切が赦される母なる世界であり
アシタのなかに
イゴールがそれを見ている。
とかく”愛”ばかりが強調されるキリスト教の本質は
マリアの母性信仰ではなく
天地を絶対支配するヤーウェであり
それは契約を破ることを
許さない
断罪する
父性の世界です。
砂漠のなかで生存をかけた厳しい
世界です、本当はね。
そして、その始まりに
神に背いた人間は
原罪を背負わされて生きていることに
なっており、
故に常にさまよいの中を生きる。
※日本人のキリスト者は
マリア信仰が多く、
実はキリスト教の本質
この絶対支配の神であることが
薄められてるように思います。
神にも等しい
絶対支配の父との約束の呪縛の中で
イゴールが見たものは
アシタの
明確な正直さ
明確な勇気
明確なる
正当性であり
アシタの包容力であり
そこには
堕ちてしまった者の
母なるものへの回帰願望が
愛情を求める揺らぎが
生まれている。
それが
父のごまかしと
偽善と偽悪世界のなかに生きてきた
イゴールの心を揺すぶり続ける。
父親からプレゼントされた指輪は
共犯契約の指輪であり
刺青は
父子密着の
共犯関係の固めの杯であり
身体的傷痕として
なかなか消えない心的傷痕を
意味します。
そして、アシタと逃げた後も
父親に電話をするイゴールは
まだ父親への依存を捨てきれない。
もう何もかもが
その契約のなかで
腐敗臭を放っている。
イゴールは母なるものをてにいれるだろうか?
アシタはイゴールを赦すだろうか?
赦さないかもしれないね。
しかしイゴールが指輪と引き換えにして
アシタに贈った切符は
確実に希望を託した切符で
新しい世界を予兆している。
人類は北アフリカの一人の女性から
始まった。
アシタの遠い遠い祖先である。
修正液を歯にくっつけて遊ぶ
イゴールと
いっぱしのワルを気取って
たばこをふかすイゴールと
そのどちらのイゴールのなかにも
アシタがいるはずでね。
ほんとうはね
皆つながっている
命の不連続の連続で。
白人キリスト教社会だけでなく
現代は、細分化され
デジタル化された世界の中で
人間はどんどん、自分の全体性を
失っている。
分裂した自分を統合できない病理の犯罪が
まったく見知らぬ人間に
刃を向けるという
分けも分からない犯罪が
多発するなか、
何かが狂っている。
しかしねえー
しかし
それでも
私は安易に現代を否定しません。
それどころか
この先に或るものを
なんとか探したいと思っている。
その先にきっと黎明があると
思っている。
そこにたどり着くまでまでは
解決していかなければならない
幾重に及ぶ困難があるとは
思いますが。
しかし現代ほど
”命”というものが
無機化しまくる中で
紙切れのように軽薄に扱われことに
私たちが気づかなければならない
何かがある。
きっと
気づかなければならない
何かが
ある。
それは
ロゼッタも、イゴールも
”命”にぶつかった時初めて
固く閉じていた自分の命の壁に
亀裂ができ
真摯なる水が外へと沁みだした。
ロゼッタは自殺しようとして
命をみすてようとした時
イゴールは、親密さを感じていた
アミドゥ―の死に直面して
はじめて
”自分の存在”という事を
確認し始めた。
命は命として
繋がり
更に
命は
他の命とも
不連続に連続してあり
この世の在りとアラユル命が
一瞬を共にしながら
生きている。
人間も鶏も山羊も石も砂も
そして
カワラノギクも水棲昆虫も
ありとあらゆるものが
不連続に連続して世界が成立して
息吹いている。
そこには
すべての命の源泉と
すべての
命を収斂させている
人為を超えた
全体があり
その全体から切り離されたとき
私たちもロゼッタもイゴールも
タダノ断片になり
彷徨う。
イゴールの約束は
母なるものをみつけることが
出来るであろうか。
アシタはイゴールを赦さないかもしれない。
しかし
やがて
イゴールは、アシタの懐の中へと
帰ってゆくと
私は思う。
きっと
母なるものの中へと
帰ってゆけると思う。
次回は
表現することとは何か
そして表現することの奥にあるものは
なにか・・・について
書こうと思っています。
でも
書けるかなあ・・・???

● 告知
映画「流・ながれ」ロードショウについて
Moreをご覧ください。
↓
告知
以前このブログでもご紹介した
ドキュメンタリー映画「流・ながれ」のロードショウが
10月27日(土)~11月2日(金)10:30/12:30/18:00の1日3回上映!
それ以降は朝のモーニングショーとして
11月3日(土)からは10:30の1日1回!
ポレポレ東中野で上映されます。
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。
by denshinbashira
| 2012-10-24 18:29
| 映画の中から自由奔放に読み取ってみよう!
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私自身、ニーチェの言葉を読んでいたこともあり、今回の記事を読んで衝撃を受けました。というのも、私自身が、以下の言葉、→「ニーチェの言葉」という本などはニーチェが神との死闘の末綴った言葉であり、当然その下敷きには聖書の教養が必要です。」しかしこの本を読む人は聖書を読んだのだろうか・・・?←という部分に、すっぽり当てはまったからです。宗教には入っていたこともありますが、聖書に精通している訳でもありません。だからこそ、上っ面の言葉でしか、まだまだ理解できていないんだと痛感させられました。ありがとうございました!
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