表現者とは、表現するとは! |
表現者について・・・というと
なんだか偉そうに聞こえるけど・・・?
そうではなく、
「ロゼッタ」と「イゴールの約束」を
見終わった後に
ふっと浮かんできたことから
ああ、表現するとは、
こういう事なのではないだろうか・・と
思い始めたのです。
「ロゼッタ」とイゴールの約束」を見終わったと
深い感慨が浮かび、
胸に訥々と湧いてくる感動がありましたが
映画の深刻な内容にかかわらず、
見終わった後、
まったく
不快感も、不全感もありませんでした。
むしろ、不思議な充実がありました。
しかしその時思い出した映画があります。
それは「誰もしらない」という
日本映画を見たときの
見終わった後の
いやーな不快感と不全感を
思い出したのです。
めったに映画を見ない私が、
その映画は
わざわざ見に行きました。
すべて父親が違う4人の子供が
母親に棄てられて、
子供だけで暮らす…という内容で
最後には末っ子の女の子が
餓死してしまう話です。
まあ
この映画をどうのこうのというより
見終わった後の不快感はなぜなのか・・・と
思い出したのです。
そして「誰もしらない」の
後味のわるさから
更に思い出したのが、
私がわかーい頃に見た映画で
タルコフスキー監督の
「僕の村が戦場だった」という映画です。
この映画を見終わった私は、
恐ろしくて震えあがりました。
そこ頃はまだ戦争の余韻の中に
時代があり、故に
より厳しく戦争というものを突き付けられたのだと
おもいますが、でも
見た後の心理的傷痕は
なかなか消えませんでした。
そしてしばらくして
ナチスのアウシュビッツに捕われ
そこから生き延びた
心理学者でもあるV・E・フランクル博士の
「夜と霧」を読んで、
その中にあった
苛酷極まりない収容所では、
希望を失った人間から死んでいき、
最後まで希望を捨てなかった人間が
生き延びた…という記述で
やっと救われました。
つまり「ロゼッタ」も「イゴールの約束」も
観客は何一つ具体的な希望を
見せられたわけではありませんが、
しかし、
観客の想像力は、
おそらく希望を見ている。
「誰も知らない」も「僕の村は戦場だった」も
喉元に突き付けられたものはあるが
それは突き付けられっぱなしで
見た者の中で浮遊してして
着地できない。
「ロゼッタ」も「イゴールの約束」も
結論として
希望などとは、一つも見せていない。
むしろ妥協など一切せず、
人間の生きる厳しさを見せつけてくる。
しかし
表現者であるダルデンヌ兄弟監督のなかに
おそらく、なにかある。
それは一条の光というほどの量もなく
微かに見え隠れする
針の穴ほどの光かもしれないが
最後の最後は
人間を信頼する
なにかがあるからだと
思います。
そして、突き付ける場合、
あるいは問いかける場合は
必ず、突き付ける者、
問いかける者・・・・と
突きつけられた者と、
問いかけられた者と
いうように
そこに
ふたつに分断された世界が
うまれてしまいます。
人間の位相が
二極に分裂してしまいます。
さらに上下の関係や
優劣の関係も
生まれてきます。
だから
突き付ける者も、
問いかける者も、
その奥に
明確ではなくてもいいから
”答え”を持っていないといけない・・と
私は思います。
表現者と
それを見ている者との
より高次の次元での
”止揚、統合”が
生まれるためには
表現者は
明確でなくともいい、
しかし
ぼんやりとでも、出口を見ている必要があると
私は思います。
突き付けたものを
突き付けっぱなしにしてはいけないし
それを観客は受け取らないと
思います。
なぜなら、
観客もその心のなかに
たくさんの怯えや恐れを
抱えつつ
必死で生きているからです。
だからこそ
映画をみにくるのであり、
観客それぞれの濃淡はありますが
映画の中と同じような深刻さを
観客自身も抱え込んでいるから
映画に反応し、感動し、考えるのです。
断っておきますが
だからこそ
気づかせてやろうとか
考えさせてやろうというのは
トンでもない事です。
観客と
作り手、表現者とが
一緒に映画を見る。
寄り添っている…という事です。
それぞれが自分の中で感じ
考えていく。
しかし
それは
嚇かしや
おびやかしではなく
表現者と受け取り手が
映画の進行に従い
信頼関係を造りながら
さらにそこから
創造していく・・という事では
ないでしょうか。
ロゼッタやイゴールが直面していることに
観客も直面している。
さて表現というと
小耳はさんだことで
表現を子供に教える教室があるらしい・・・です。
小耳にはさんだことなので
正確なことはわかりません・・・。
心理から見ると
人間は常に
表現しながら生きています。
生まれた瞬間から、
赤ん坊はオギャーと表現し
人間のアリトアラユル行為は
その人間の表現そのものです。
だから
表現とは・・・と子供に教えてしまうと
子どもは教えられたものだけが
表現かと思い込んでしまい
その子が意識、無意識で仕入れた
アリトアラユル限りないことが
制限されてしまうことにもなりますね。
この世は表現だらけで
町の看板も、
道路も信号も標識も
建物も車も家々の花壇も
人々の洋服も歩き方も
すべてが表現です。
しかし
表現者はその中から
自分が表現したいものを
切り取って
囲い込んで
さらにそれを深く追求して
今度は
自分以外の他者に向けて
それを表現しなくてはいけません。
その時表現者がいかに
自分の内部洞察を厳しく行っているかが
鍵になると私は思っています。
自分の内部の洞察、省察が
人間という抽象性において
深められているかどうかで
はじめて
”普遍性”へと
繋がっていきます。
「ロゼッタ」も「イゴールの約束」も
その意味では
大変深いものがあると思います。
この映画は
人間の核といいますか、
魂のど真ん中に
ひたすら主眼が注がれ焦点化されて
撮られ,
創られた映画だと思います。
表現者の眼は
魂のど真ん中から
眼をそらさない。
ひたすらそこへ向かって
ぐいぐいと迫っていく。
それが素晴らしいです。
不必要なものがすべて
そぎ落とされ
周辺の説明は一切なく
表現者の意図するものが
背景としても小道具としても
どんどんドストライクに
放りこまれていました。
これはカウンセリングにも
通じるものがあります。
カウンセリングは
その相手の心の核のところ
いちばん純粋で濁りのない処へとめがけて
言葉を投げかけていきます。
そこへめがけて
選びぬいた言葉を
投げていきます。
だから
カウンセラーの方も
ありのままの
裸の自分をそこにさらしながら
クライアントとの共同作業に没入します。
厳しく、厳しく
魂の中心から
逸れない様に
一点に
集中していきます。
一切の自己弁護や
甘やかしや
妥協をはぎ取って
ひたすら
中心へと
迫ってゆく。
そうしないと
ありのままの相手と
ありのままの自分(カウンセラー)が
出遭えないからです。
それは表現と言えるか言えないか
わかりませんが、
でも
そこに表出されるのは
クライアントと
カウンセラーの
なまの心です。
正直で純粋な心です。
それなしに
解決への道はありません。
「ロゼッタ」と「イゴールの約束」も
そういう映画だったように
思います。
特に
「ロゼッタ」には
表現者ダルデンヌ兄弟の
決して退かない決意のようなものを
感じました。
私はそこに勇気づけられましたねえ!
クライアントと対峙しても
一歩も
退いてなるものか・・・。
退いた瞬間から
真実が崩れる・・・とも
思いましたよ。
いい映画でした、村上監督!
少なくとも、残りの人生の時間は
こういうところに足場を作り
肝を据えて
表現していきたいです、私は!
『伝心柱マガジン』
● 告知
映画「流・ながれ」明日からいよいよ上映です。
Moreをご覧ください。
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告知
以前このブログでもご紹介した
ドキュメンタリー映画「流・ながれ」のロードショウが
10月27日(土)~11月2日(金)10:30/12:30/18:00の1日3回上映!
それ以降は朝のモーニングショーとして
11月3日(土)からは10:30の1日1回!
ポレポレ東中野で上映されます。
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。
作品を作ることは、芸術家にとって生きることそのものだと思いますが、その根底に必ず自分への信頼がなくてはならない、ということだと思います。制作過程で「そこまでを求めるのは難しすぎる」というあきらめは、自分の持っているはずの力、それを発掘する自分の力を信頼しきれていないから、でてきてしまうのでしょう。
忘れてはいけないと思います。