表現者とは、表現するとは、センターに立たない! |
私は思っています。
そして、
この世に表現されているものを
見極め、手に入れてるためには
決して
うかうかと
センター(中央)にはいかない事だと
自戒しています。
なぜなら
センターに行こうとする心理も
安直ですし
そして
もしセンターに立ってしまったら
多分
脇が見えなくなっていくからです。
センターからに見える風景と
脇から見える風景とは
格段の違いがあります。
センターは自分が中心ですから
そういう風に風景が見え
そういう心理で
風景を見渡してしまいます。
当然センター、
つまり中心を軸にして見える風景は
そこに序列や段差ができ
中心からとおいところは
影が薄くなります。
しかし
そこには大きな落とし穴があると
私は思っています。
しかし脇からぐるりと見渡す風景は
センターから見渡す風景を格段に超えて
様々なものをみわたし
更に中心も脇も”並列”に、
対等にみえることです。
まあ、勿論
センターにいきたい人には
そういう風にはみえませんよ。
表現者が見なければならないのは
この脇から見える風景で
文化はすべて
周辺から中心に向かって進行することを
熟知していなければなりません。
これはねえー
たいがいの人々が勘違いをしていてね、
逆に
中心から周辺へと文化が進行すると思っているひとのほうが
圧倒的に多いです。
だから、〇〇町トリエンナーレとかいって
東北の町に現代アートを下していくなんてのは
まったくそのことが理解されていないと
思いますよ。
私も見に行きましたが、
ありゃ・・・ってなもんでしたねえー!
話が逸れるから、もとに戻して、
賢い人間
本質を見ている人間は
まず、周辺に自分をたたせ、
そこから次第に自分をみつめ、さらに煮詰めながら
時間や年月をかけて中心へと迫っていきます。
迫っていくというより
むしろ
ことが熟して行く、煮詰まっていくから
自然とセンターへと
近づいて行くのです。
そして、いよいよセンターへと
踏み込みを始めとき
その人は
もう脇から中心までの間で獲得した
めいっぱい豊富な内容を
手にしながら
中心に立っている。
その手に入れたなかには
アリトアラユル事象に通じながら
アリトアラユルことが詰まったその人の
柔軟で濃い密度、濃度高い世界が
そこに在る。
アリトアラユル事に
対応できる
脳世界とその方法が
身体のなかに
山のように河のように
つまっています。
これを手に入れたときこそ
表現は
自由自在に
変幻自在に
何でもありと
果てしなく広がり
しかし
最も近距離に
最も必要なことが
天から降ってくる。
つまり
瞬間的にひらめいてきます。
まあ、これは脳の中がフル活動しながら
瞬間的にシャッフルして
適切なことが”ひらめいてくる”という事ですね。
才能が全開する、
天才的にひらめいてくる・・とかです。
これはまあ
余談ですけど、
センターにたたないことの
わかりやすい例といいますか
ちょっと
通俗的な例で、
スケールは小さい話ですが、
つい最近
あーあ、この人は
そのことに気が付くと
変れるのになあ・・と
おもった俳優さんがいます。
それは
大滝秀治さんが亡くなった時の
高倉健さんのことです。
健さんは大滝さんの演技に
感激して涙を流していたようで
それをテレビで見ながら
私がふっと思ったことです。
高倉健さんが、どれほど誠実でいい人かは
きっとそのとおりなのだと
思います。
しかし、
健さんと大滝さんを並べて比べてみると
やはり大滝さんは、どんな役でもこなせる
化けられる・大役者でした・・ただし
イケメン以外の・・・。
私の眼には同じ爺さんの役者としても
健さんよりは各段に
大滝さんの方が風格があり
熟しています。
それは大滝さんがずーっと脇をやる中で
或いは
センターに立たないことで
下積みの苦労の中で
人間を観察し
人間の生態を身ぐるみはがして見える
位置にいたからだと
思います。
大滝さんのすごさは
その人生を役者にかけて
自分の中の澱が堆積していく中で
それが次第に醗酵し
旨みなって円熟していく
その遠くて長い道を歩いていったからだと
思います。
高倉さんも今もままでも
ステキなのですが
でも
今からでも
まだ
間に合います。
センターの自分を捨てて
自分のイメージをすてて
アリトアラユル人間に
化けることに徹する。
名声や地位を放り出し
ただの俳優になる。
アリトアラユル
だーれからも振り返られないような役の
その位置にたつことに
気が付いた・・・ら
まだ間に合うような気がします。
だーれも振りかえらないような
その位置に
たち続けることが、
そういう人間を演じることが
スゴイことなんだと
気づいたら
さらに彼の役者としての
開眼があるでしょし
もう彼自身が
オモロクでたまらないでしょうね~!
まだ気づいていないように
私にはみえます。
ま―これも
私の独断と偏見の意見ですが・・・・!
表現者が表現することの普遍性や
表現の極地の喜びを
得たならば、もう
それこそが
他には替えがたい生きがいとなるでしょう。
つまり
表現するということは
人間が生きることそのものであり、
生きることとは
表現し、その反応を手に入れること
そのものですからね。
おぎゃーとないた赤ん坊が
母親からおっぱいを貰うように、
自分の行動や言葉に
相手が反応してくるように、
人間は眠っている時以外は
常にその外部に向かけて自分を
表現し、関係を造り続けてしか
生きれません。
専門的にいうなら
人間は常に
自分の内部時間を
外部時間に向けて構造化しつづけている。
まあ
こういうこ難しいことはいいとしても
ダルデンヌ兄弟が作った「イゴールの約束」は
ジャン=ピエールダルデンヌ、45歳の時
「ロゼッタ」は48歳の時で
やはりそれまでの下積みや苦労の上に
才能が開花したと思います。
更にそのインタヴューを読んでも
明らかに、
人間の最も自然性に根拠をおいた表現としての演技を
俳優に要求しており
更に更にすごいのは
おそらく人間の無意識層に起きてくること
つまり
インナーチャイルド(子供時代の長期記憶)に関する
知識を持っているだろう・・と
私には思える。
インナーチャイルドに関しては、
自分がその存在の仕方を
全面否定されるほどの
挫折か傷つきがあり
そこから立ち上がるプロセスがないと
なかなか気づくことができない。
それかもしくは、
驚くほどのたかいレベルの
教養や知識においての
自己洞察、省察が出来ている・・・かである。
映画にとどまらず
すべての表現の奥には
インナーチャイルドがいると
思います。
そのことまた
改めて書きましょう。
今日も
長くなったなあ・・・!

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今回の文章を読みながら、重なってきました。他人を意識してしまうわたくしにとっての、目標、デクノボウ。永遠の目標デクノボウ。少し近づけた気がしていた矢先のうつ症状による休職でした。まだまだでした、わたくしは。しかし、マグノリアの木のように、少しだけ今を平らに感じることができています。このブログからのおかげもあります。今の自分を悲しく思ってくれる人が少ないけれど確かにいる。その人たちのためにもかつての自分らしさを取り戻したいと思っています。

